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周辺からみた物理

理科教育に知的ときめきを

武部俊一

〈朝日新聞社 104-11東京都中央区築地5-3-2〉

その昔の恩師の思い出はいろいろあるが,授業内容そのものを覚えているものは,そんなにない.いまだに夢に出てくることといえば,数学や物理学の時間に当てられた問題が解けないで,黒板の前で立ち往生しているというような,ろくなものはない.

そのなかで,いまも鮮明に頭に残っている物理学の授業がある.私が神戸市の私立灘中学校の2年生だった1952年(昭和27年)のこと.新学期が始まったばかりの4月9日に,日航機もく星号が三原山に墜落して,多数の犠牲者を出した.日本初の本格的な旅客機事故といっていい.

山腹に散らばった残骸を写した新聞の映像が飛行機事故の恐ろしさを伝えていた.その直後の授業で,物理の築山先生は,この事故を教材にして,航空工学の初歩のようなことを解説して下さった.飛行機はなぜ揚がるのか,もく星号はどうして落ちたのか,事故原因の推理にまで及んだ話だったように記憶している.

今でいえば,先生はテレビの解説者のような役目を演じていたのかもしれない.まだ飛行機に乗ったこともなかった私は,目からうろこが落ちる思いがするとともに,勉強の対象でしかなかった「理科」が,現実の社会の問題を解くことにつながることをおぼろげに感じていた.

当時は,それほど進学熱が高まっていなかったので,多少の余裕があったのかもしれないが,その後,高校へ進むにつれて,物理はしだいに面白くない科目になっていったように思う.てこや滑車など無味乾燥な道具がやたらに登場する力学との付き合いのせいだったか.

私が物理学に再び興味を見出したのは,ずっと後になって科学記者として,素粒子や宇宙論の世界を取材するようになってからだ.そこには,知的興奮があった.

「科学技術立国」を標榜する日本に欠けているのは,その基本となるべき知的ときめきである.とくに初等・中等の理科教育界にそれを育もうという意欲が感じられないばかりか,知的好奇心をしぼませるようなシステムが定着しているのは,嘆かわしいことである.

高校でも,物理嫌いが増え,理学部や工学部に進学するのに,受験科目に物理学を選択しない生徒がかなりいると聞く.物理の先生は減っているらしい.一方,学問の世界では,いぜんとして「物理学帝国主義」の伝統は消えないようだ.確かに,物理学は自然科学の基礎ではある.この大きな落差をどう埋めるのか.

帝国の中核である物理学会に期待するのは,知的職能集団としての旧帝国を解体するとともに,新たな自然科学の体系,それにもとづく総合的な理科教育の体制をつくる先導的な役割を果たすことである.

中等教育の理科は,いまも物理学,化学,生物学,地学に分かれているらしい.この区分にどれだけの意味があるのだろうか.ノーベル賞の授賞分野から,大学の学部・学科にいたるまで,記者として取材する立場からも,伝統的な学問の壁に疑問を感じることがままある.物理の先生がいるから物理の講座があり,授業があるのだろう.

宇宙の起源と素粒子論とか,分子生物学,生物物理学,生化学などのトピックをみても,旧来の学問の境界を超えた話題が多い.まず,教育のなかで,自然科学の統合を進め,ときめきの知的世界を再構築できないものか.

「総合科学」というカリキュラムも導入されているが,受験に結びつかないために定着しないようだ.基本的な総合科学は,理科系だけではなく,文科系の生徒にとっても欠かせない素養だと思うのだが….

オウム真理教事件に高学歴の理科系人材がかかわっていたことから,教育の欠陥を批判する声も出ている.これは必ずしも理科教育の問題だとは思わないが,若者が特異な精神世界にひかれたり,オカルト現象に異常な興味を抱くとすれば,いまの自然科学教育のなかで満たされないものを感じていることと無縁ではないだろう.

ものごとを根源的に考える(そう信じる)物理学者が,教育のなかで果たすべき役割は大きい.たんに知識の交流だけではなく,科学的なものの考え方や,科学と宗教との関係,科学・技術と社会と関りあいなどについて,学校教育や社会教育の場でもっと発言する必要がある.

とくに,中等教育の段階で,自由な発想を伸ばす教育が大切だと思う.そのためには,幅広い教養と柔軟な頭脳をもつ教師がいなければならない.現状では,そういう先生はまれで,たとえいたとしても,偏差値教育のなかに埋もれてしまっているにちがいない.

物理学会などで考えてもらいたいのは,教育者の「縦の流動性」だ.ふだんから中等教育の充実を力説している大学の物理の教授たちが,中学校や高校の先生に転身した話は,めったに聞かない.定年後に,私立大学に天下るのもいいが,若者の心をときめかしてあげようという熟年教授は現れないものか.

制度としての阻害要因があるほかに,待遇に示される社会的な地位がからんでいるから難しいのだろう.研究意欲を失った教授を思い切って首にし,それで中学や高校の先生の給料を倍にしてあげたい気持ちだ.その結果,優れた研究者が中等教育に拡散すれば,若者たちへの大きな刺激になるのではないか.

物理の先生の思い出が,思わぬところへ拡散した.