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周辺からみた物理

物理学者への期待

宮部信明

〈岩波書店『科学』編集部 101-02東京都千代田区一ツ橋2-5-5 e-mail: MD6N-MYB@asahi-net.or.jp〉 

今世紀初頭,物理学者はあいついで二つの大きな革命を引き起こしました.いうまでもなく,それは相対性理論と量子力学の建設です.そして今日,その発展として,物質の究極像を探る素粒子論,物質のさまざまな性質を解明する物性物理学,宇宙の秘密に迫る宇宙物理学などが花開いています.これによって,物理学者は単に自然界のいくつかの法則を明らかにしただけでなく,私たちの自然観にも根本的な影響を与えました.また,今世紀半ば過ぎに起こった分子生物学革命においても,N. BohrやM. DelbrckやE. Schrdinger らの物理学者が原理的な思考の力によって生物学の発展の方向を強力に示唆したことが,その大きなきっかけをつくりました.物理学者が今世紀果たした役割は実に輝かしく巨大なものでした.

ところで20世紀がまもなく終わろうとする今日,社会における物理学者の存在感はやや薄くなったようにみえます.SSC建設の挫折に象徴されるように,物理の代表格だった高エネルギー物理の発展もいささか失速しかかっているように映ります.核兵器や原子力やエネルギーについての物理学者の社会的発言もかつてのようには聞かれなくなりました.理科離れにおいても,物理離れが一番顕著です.では,このような傾向は21世紀になっても続いていくのでしょうか.私は決してそのようには思いません.私は物理学者にきわめて大きな期待を抱いているからです.

第1に,これまで原理的に未知だった領域に挑戦していただきたいと思っています.何といっても物理学者は原理的な思考に強い方々です.まったく未知の領域にも果敢に挑戦し,そこにまったく新しい法則を発見します.数学を強力な道具として駆使することに最も長けています.物理学者がパイオニア精神を堅持して,これまでに貯えてきたさまざまな道具立てにさらに磨きをかけていくならば,カオス,非線形系,複雑系の研究の発展を含めて,物理学はますます多様で魅力的なものになっていくと思います.

ここで,私が物理学者にぜひ挑戦していただきたいと希望している例を一つあげさせていただきます.「科学最後のフロンティア」といわれるように,自然界の中で原理的に考えて今一番わかっていないのは脳とその働きでしょう.脳の構造と機能については,大脳生理学者たちが多くのことを明らかにしてきました.一方,M. Minskyらコンピュータ・サイエンティストたちは,人工知能の研究を端緒としてコンピュータを利用して脳のモデルを作る試みを始め,この流れは今日では認知科学という新しい学際的な学問にまで発展してきています.コンピュータ・サイエンティストたちは脳の機能の解明において新しい橋頭堡を築いたということができます.それでは,大脳生理学者とコンピュータ・サイエンティスト(あるいは認知科学者)にまかせておけば,遠からず脳の原理が解明されるのでしょうか.私にはどうしてもそのようには思えません.大脳生理学者は現象面から脳の機能に迫っていますが,かつての生物学者と同様,そこを支配している原理を追いつめることが得手ではないようです.では,コンピュータ・サイエンティストはどうでしょうか.なるほど脳の機能,たとえば,思考のメカニズムのモデルは作り上げたかもしれませんが,それはどこまで行ってもメタファーでしかありません.

このような領域こそ物理学者が腕を振るうにふさわしい新しい場所の一つではないかと思えてなりません.これまでの研究成果をふまえ,さらにそれを乗り越えて,脳を支配している新しい原理を探る力のあるのは,物理学者をおいて他にはないのではないでしょうか.実は,すでに鎮目恭夫氏が指摘されていることですが,量子力学を建設した一人であるSchrdingerは,半世紀以上前にこの課題を明確に意識していました.1, 2)彼は,人間の自由意思について考察し,「私は自然法則に従って,いわば機械仕掛けで動いている.にもかかわらず,私はその運動の支配者であるというのはどういうことか」と問いかけました.3, 4)20世紀末の物理学者は,その気になれば,脳についてSchrdingerよりはるかに多くの知識を得ることができます.分子生物学革命を引き起こしたときと同様な役割を脳の謎の解明においても物理学者が果たしうるのではないでしょうか.R. Penroseや篠本滋氏らはすでに挑戦を開始しています.5, 6)

私が物理学者に期待したいことはもう一つあります.それは,社会との関わりでの積極的な発言です.冷戦の終了によって世界核戦争の危機はひとまずは遠のきましたが,最近のフランスの姿勢を見てもわかるように,核戦争の可能性はいまなお決して無視し得ないものがあります.また,解体核兵器から出てくるプルトニウムの問題,原子力発電の安全性と核廃棄物の問題もあります.さらに,人類のエネルギー問題をどうするのか,核融合をどのように考えるのか,というのも近代世界が抱え込んでしまった大きくて重い問題です.これらは,いずれも物理学者の積極的な発言なしには,議論が健全には発展しないものばかりです.

原理的思考による多様なフロンティアの開拓と,積極的な社会的発言.物理学者による自由な精神の発揮を心から願っています.


参考文献

  1. 鎮目恭夫:日本物理学会誌 49 (1994) 577.
  2. 鎮目恭夫:『心と物と神の関係の科学へ』(白揚社,1993).
  3. E. Schrdinger: 科学 6 (1936) 380.
  4. E. Schrdinger: What is Life? (Cambridge Univ. Press, 1944). 岡 小天,鎮目恭夫訳: 『生命とは何か』(岩波書店,1951).
  5. R. Penrose: The Emperor's New Mind-Concerning Computers, Mind, and the Laws of Physics (Oxford Univ. Press, 1989). 林 一訳: 『皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則』(みすず書房,1994).
  6. 篠本 滋:『脳のデザイン』(岩波書店,1996)