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50年をかえりみる

原子核分光学の展開--私の来た道

森永 晴彦*

〈Technische Universitt Mnchen, Arcisstrasse 21, 80290 Munich, Germany〉

1. ひとりで考えていた頃

核分光学の,私にとっての原点は多分,終戦直後大学卒業まであと一年の間 (1945年10月〜1946年7月頃まで) に聞いた嵯峨根先生の講義「放射能作学」の中にあった.先生の講義は装置のことが多く,しかも,どっちの方が安上りだというような「不純」な話が多くて,つまらなく,殆ど全部忘れてしまったが,一つだけ,私がその後不純なことをやらされている間を通して頭に残っていたのは,「a線やg線が線スペクトルをもっていることからして,核にも原子や分子のような構造があることは期待されるが,原子や分子を結びつけているCoulomb力に比べて,核の中の陽子と中性子を結びつけている核力はずっと複雑で,しかもその精しい性質は未だわかっていないから,a線やg線のエネルギースペクトルから得られる核の励起準位のスペクトルがわかっても,それを解釈することは困難であろう」という一節であった.因みに,それを解明してそれから核力を知ることができれば……というのは,一つの大きな夢で,また核力を知るということは聖なる物理屋の使命であると思っている人に会うことは少なくなかった.

私は,それから嵯峨根研に入った.仕事は,日本の原子核研究のために次世代の加速器の可能性を勉強することだったので,その頃出てきたシンクロトン原理や,Alvarezによるリニアックなどすべての加速器の文献をわくわくしながら読みあさったり,新しい加速器のアイディアのモデル・テストなどしていたので,核物理自身の方はわからず,眠たいBetheの赤本の論講ぐらいの付き合いしかなかった.

原子核の研究室のそもそもの目的である原子核研究を,本場の好条件で自分でやるチャンスにめぐまれたのは,1951年にアメリカIowa州立大学にGARIOA基金による留学生として行ったときだった.嵯峨根先生はもう古巣のBerkeleyに行ってしまわれていたが,どうも私がこんなところに行くことになったのは,少くとも間接的に先生の影響があったらしく,いろいろと私のことを心配して下さった.その頃の言葉でよく覚えているのは,「アイディアで勝負するか,テクニックで勝負しろ」というのだった.ところが,テクニックで勝負するにはどうしても現場に出ざるを得ない.ところがシンクロトロンの実験室に行っても,わかる言葉は “ビーム・カミング・オン” ぐらいで,16人に一人で選ばれた私の英語が全く通じない,というわけで,最初の1年は毎日深夜まで,Chicago大学でミュー中間子にあてた原子核乾板とにらめっこをしていた.見たものは2万3千個の中間子が止ったポイントである.その中,約2パーセントの場合に何か起っている.1個陽子が出ている場合,それにリコイルがついているとき,a粒子,その外小さなスター等.これらの一つ一つを,あるいはその統計をどう解釈するかは,まさに楽しみの宝庫で,私の核物理の研究の出発点だった.

2年目からは,シンクロトロンで働くことになった.速いエレクトロニクスをやってはとの提案もあったが,一つには前と同じような意味で自信がなかったことと,シンクロトロンではまともな提案さえできれば好きなことをやらせてもらう可能性があったからだった.しかし,二年間いたシンクロトロンでは私の提案 (三つ〜四つ) はどれもうまくいかなかった.今から考えると,これは私が全く核物理に関して未熟だったからだ.たとえばアルミニウムを70ミリオンボルトのX線で照射して(g,3n)反応を用いて24Alを作り (馬鹿な話),その崩壊から24Mgの構造を調べようと思った.その一つの訳は,当時まだ殻模型はまだ私にはよくわからず,Weisskopfの教科書に出ているa模型でこれをオクタヘドロンとしてうまく行かないか調べてみたかったからだった.これは全然うまく行かなかったが,その近所の原子核をずっと調べていくうちに,8Beでは同じだが,12C以降クローズ・パックドの代りに線形になる可能性があるのではないかと考えはじめて,紆余曲折の末,線形核の可能性を指摘したところ,当時は極めて厳しかったPhysical Reviewsが掲載してくれた.おかげでa模型というものをだいたい体得することができた.

もう一つ,この頃探して随分やったのに見つからなかった核は, 26Alの長い半減期 (今は7.5×105年と知られている) のアイソマーであった.当時の競争には負けたが,おかげで鏡像核とかアイソスピンが核スペクトルに与える影響がよくわかってきた.このころ書いた(g,P)反応の断面積が異常に大きくなることをアイソスピンの選択則で説明した説は,はじめての,その選択則の動的範疇になった.

3年間のIowaの,牧歌的だが物理の仕事では何も殆ど不成功に終った生活の後に,Indiana州Purdue大学の核グループに移って1年半仕事をした.ここには古い小型のサイクロトロンがあった.スイスのETH出身のBleuler教授はその主任だったが,理論のPeaslee教授と共に良く私の考えを聞いてくれ,かつ指導してくれた,またとない師であった.この短い間に10程の論文,しかもいくつかはあとで何度も引用されたものを書き上げた.その他,アイソスピンの知識に基いて42Scの半減期が0.6秒であることを予想して,まさに,それと全く同じ値を観測するのに成功した他,50Sc,40Cl,74Gaという三つのアイソトープも見つけて,大体その崩壊を決定した.なお,私がうれしく思っていることは,これらの半減期の値が,その後,多くの研究者により追試されても,はじめ私のきめた値と殆ど違っていないことである.この頃までの論文は約半数が個人名で,残りはすべて二人の連名のもので,重要な間違いは未だ見つかっていない.


2. 核分光学のフロンティアへ

Purdue大学にいる間は仕事の方も一気に進んだが,勉強の方も大変面白い契機があった.それは,同じ州の文科系の方,Indiana大学の物理教室とわれわれの方のそれとの合同ゼミナールが両校で交替で行われ,そこで,その当時,花火のように盛り上った六人ほどの若手理論家に接する機会があったことだった.その内の一人は,すぐ数ケ月前Columbia大学で,当時日本から流出して居られた湯川秀樹教授のところで博士号を取り就職してきたばかりのCarl Levinson博士で,私には湯川先生のところでやらされたテーマ(多分非局所場理論のことだろう)はあまりにも抽象的でむずかしかったので,今度はもっと実験に近い話をやりたいのだと言っていた.彼がその合同ゼミナールで話したのは,次のようなものであった.

実験データの集積により,いま多くの核の低い励起状態に殻モデルによる状態のアサインメントができるようになった.一つの実例として,41Caはダブル・マジックのコアに一つの中性子がついたアルカリ原子のようなものなので,41Caの下の方の励起状態はj-j結合の殻模型の1f7/2,2p3/2, 2p1/2,1f5/2……と考えることができる.それでこれらのエネルギーから,中性子に対するコアの一体ポテンシャルがスピン軌道力まで入れて出せる.次に42Caの低い状態は下から順にf27/2(n)からできる0-2-4-6の状態と仮定できる.これから核内の中性子間の力を出す.すると,ありそうもない三体力がないと仮定すれば,上記のパラメターのみからf37/2(n)だと考えられる43Caの低い状態が計算できる.それでやってみたところ,実験ときわめて正確に一致したというのだった.このようにして,嵯峨根先生の講義では考えも及ばなかった核スペクトルが,少くとも現象論的には解釈がされ得る糸口が見つかったのである.

Indiana大学はそもそも原子核分光学という言葉をはじめたMitchel教授が居り,43Caの実験的なスペクトルもここで決定されたものだった.ところが,Levinsonの理論が出て1年たったかたたない間に,この実験は間違いだったことがわかり,核物理学者の短い成功の夢は消え去った.

この一事件は私のところにも波及してきた.というのは,前記の新しく見つけた50Scの崩壊型式の中に見出された50Tiのスペクトルが,かなりLevinsonの使った42Caのスペクトルと異っていたことで,なぜ1f27/2(n)である42Caが1f27/2(p)である50Tiのスペクトルとこんなに異うのか,いろいろな理論家にきいてまわったが,ちがっていけないとは断言できないとか,わからないとか言う答が大部だった.それもあって50Scについては内部研究報告だけにしておいた.だが一年半後にPurdue大学を去ってスウェーデンのLundに向う途中New Yorkでお会いした呉健雄女史が,もしや42Caのスペクトルに間違いでも……と暗示的なことを言われた.

1956年の初めから1年半,前にIowa大学のシンクロトロンで一緒にいたスウェーデンのJohanssonがLund大学に席をつくってくれて大変有益な時を過した.ここは,Copenhagenに近く,金曜日のコロキウムは未だいつもNiels Bohrが司会して,世界中の第一線で仕事をした人達が話しに来て,私はいつも一時間の船旅で当時まだ仕事をしたばかりのNilssonと一緒に聞きに行った.日本からは当時,田村太郎,亀淵迪,江夏弘氏が来ておられ,大抵のときは田村さんと最終の船までしゃべっていった.そんなおかげで,また,Iowaの時のように論文はひとつもできなかったが,大変勉強をした.特にNilssonモデルを十分に理解できたのは後日のため非常に役に立った.

1957年秋,木村一治教授の招きで東北大学に助教授のポストを得たとき,日本の核物理学は将にスタートの用意ができていた.仙台では木村,北垣のグループが総力をあげて手作りしていた25 MeVのベータトロンが殆ど完成,また,東大核研の新しいサイクロトンも運転が近く,東海村の原研の1号炉による研究も殆ど始まっていた.それで最初に手をつけた実験は,その1号炉で42Kを作り,その崩壊形式を調べ直し,前記のPurdue以来やりたいと思っていた42Caの準位構造を調べ直してみることだった.木村研の優秀な若い人達の助力を得て,数回の東海村行の後に,やはり呉女史が言ったように前の第二励起状態のスピンの値が間違いで,この状態は1f27/2(n)からくる4+ではなく,所謂イントルーダーO+であることが一意的に示された.その間約2年間考えていた問題がホーム・グラウンドで解決されたのは大変意議あることだった.50Scの方は後1962年Amsterdamから1週間Napoliに行ったとき,そこの小さな機械でPurdue時代の追試を行ない1f27/2(p)のスペクトルを確認し,それが新しい仙台での1f27/2(n)と酷似しているという殻模型としては満足すべき結果が得られた.

こういう結果が出ると当然考えてみたいことは,41Caの低い状態のLevinsonの殻模型によるアサインメントも大丈夫かということだ.この核については,実験をやり直す機会は当時私にはなかったので,当時知られていたすべての核データを考え直してみることしかできなかった.そうすると一つの面白い点が浮かび上ってきた.それは,中性子捕獲に伴うガンマ線が,いままで考えられていたような統計的なものとは全く違うことだった.当時は,実は今でも,中性子捕獲は,まず核が中性子を捕獲して複合核ができ,それがガンマ崩壊するという二段階の過程と考えられていた(る).そうだとガンマ・スペクトルはもっともっと複雑なはずなのに,最初のガンマ線は大部分がたった二つの状態にしかいかない.それはLevinsonも2p3/2とした2 MeVの状態と,Levinsonが2p1/2とした2.5 MeVのものよりはるかに高い4 MeVの状態なので,むしろ中性子捕獲が複合核を経ない直接過程で2p状態のペアが捕獲に関与しているのではないかと勘ぐるようになってきた.それで若い理論家に頼み,当時,原子力研に入ったばかりのアナログ計算機を菊池正士所長の御厚意で使わせていただいて計算したところ,計算値は捕獲断面積とp状態への比をきわめてよく再現した.中性子捕獲の直接過程については殆ど同時に米国と英国で別の観点からその存在を提唱する論文が出た.一人は中性子屋,一人は直接過程屋で,ちなみに私はガンマ屋ということになっている.

この頃,原子核理論の第一人者のWeisskopf教授が来日された.その頃われわれはまだ日常生活は貧しく,教授はもらった滞在費を寄附して行かれたのを覚えている.しかし学会の方はそろそろサポートも得て来て,京大基研で湯川所長が,Weisskopfが来るから御前講演をしたいものは申し込むように,という檄をとばして下さった.私も仙台からの旅費をいただいて,この中性子の捕獲過程の計算の報告をしに行った.Weisskopf教授は大変面白いとほめて下さり,「実は,中性子が発見された直後,新しい核理論の展開を試みたBetheは他にどういう理論も考えにくかったので,一応私の考えたような直接過程を考えたのだが,すぐ直後に出た一連のFermiの中性子捕獲の,特にその断面積がしばしばとんでもなく大きくなる現象が直接過程では説明できず,それでNielsBohrの複合核理論ができたのだ」と歴史を教えて下さった.あとで昔,教科書に用いたBetheの赤本 (Reviews of Modern Physicsの1936〜37年に出たものを集めたもの) を見たところ,そのとおりのいきさつがはっきり書かれていた.

湯川さんが直接司会されたこの会は大変印象的なものだったが,私にとって特に重要な意義のあるものだった.それは,そこに来て居られた吉沢康和氏による,銀にa粒子をあててできるインジウムの放射性同位元素の基底状態とアイソマーとの生成比をa粒子のエネルギーの関数として測ると,非常に広いエネルギー範囲で,それが1程度から20までリニアーに変るという報告だった.それで,まだ着席中--多分その次の講演が行なわれている間に--インプットの角運動量が,その二つの異性体のスピンの平均値より少ないような,いわば正面衝突に近いときは基底状態になり,角運動量が大きいときにはアイソマーになるという簡単な仮定で計算してみたら,吉沢氏のデータが極めてきれいに説明できた.別に論文を書くなどということは考えなかったが,いろいろそれについて考えたり人に話しているうちに,大変重要なその意味がわかってきた.というのは,前記の仮定が使えることは予想したものの,それが本当ならば一意的にある実験条件(特定のエネルギー,単一核種のターゲット)の下に,連続領域の複合核反応の際に出てくるガンマ線の中に,際立ってイラスト状態--特に偶-偶の変形核ならばその回転状態--を経るガンマ・カスケードが見える,ということである.この基本的アイディアの中には,その他案外知られていなかったが,中性子捕獲をやっていた人達が出していたデータ「複合核から出るガンマ線の数は3乃至5」ということも入っている.

このアイディアをやってみる機会にありついたのはそれから約2年後,Amsterdamの国立研究所においてであった.物理的には東大核研でやれる実験だったが,制度的にとてもできるはずはないし,既に私のグループがやっていた他の実験もあったので申込めなかった.当時は,この日本唯一の新鋭の加速器には使用申込が多く,一度やった方は数ケ月御遠慮下さい,というような条件では,やってみては条件を改善してまたやる,ということの必要な新しいジャンルの開発などできなかった.

Amsterdamには一応お茶を濁す程度の普通のベータ,ガンマ分光学のテーマなどを考えていったが,前出のBleulerとスイスで同窓だった所長のGugelot博士がはじめて私のアイディアを買ってくれて,「僕が手伝うから,やってみよう」ということで,彼のサイクロトロンの経験を十分に生かして,行ってから二月ほど後に,すでにディスプロシウム160の知られている回転状態をつなぐガンマ線が6+−4+まで,更に知られていなかった8+−6+の状態が極く簡単なバラック・セットの実験で見えてきた.これは大変な喜びであった.その第一の理由は,それまで多くの人からそんなものが見える筈はないと言われたし,特に行く道に寄ったCopenhagenでAage Bohrから,似たような試みがBerkeley(米)とDubna(ロシア)の両方でなされたが不成功だった,というニュースを聞いていたからだった.

その後,バラック・セットを止め,特にこのための測定システムを作っていき,全10ケ月Amsterdam滞在の間に合計200時間のマシンタイム (ただしこれはトライ・アンド・エラーのできるようにアレンジできた) を用いて,変形核35についてスピン状態が8乃至10までの回転レベル,その他いくつかの準変形核や振動核のイラスト・レベルをみつけることができた.


3. みんなと一緒に

AmsterdamのGugelotと一緒の実験の一シリーズのあと帰国の途中,Copenhagenでこの話をしていった.たまたま幸に後でよくのびていった人達がたくさんいて,私の結果に非常に注目したが,特にMottelsonが大いに興奮して,私の話の後3分の1は彼に演壇をとられてしまった.彼はそのころ回転レベルがスピン14〜16位で切れるという予想をしており,これは集団運動模型の基礎に拘わることなので何とか調べたいと思ったが,Amsterdamの実験の成功はこの可能性を与えたことに特に重点をおいた.結局比較的すぐこの乱れ (いわゆるバック・ベンディング) はStockholmのグループにより見つかり,その後この問題は長く核物理学会を賑わした.実験的には,私はまだシンチレーション・カウンターを使ったのに,すぐその後ゲルマニウム検出器が出てきて,これと急速に進んだ同時計数回路とコンピューターの発達により,この分野--実験的に言えばイン・ビーム・ガンマ線分光学,多少理論的にいうと高スピンの核物理--は世界中をにぎわすことになった.私自身はその後,この分野を進めるために良い条件のところにはいなかったが,むしろ楽しんだのはこの60年代の日本の核物理の盛り上りだった.

もちろん,この盛り上りを招来したのは,終戦直後に再建のために努力された我々の先生方や先輩の仕事の結実である.これらの努力によって,前記の1958年頃に日本でも,ホーム・グラウンドで原子核物理ができるようになってきた.それまでの若手(私達)ができた仕事は,理論か外国に行ってする仕事だった.それで60年の初め頃には少しずつ日本国内でもデータが生産されはじめ,当然のこととして起こったのが理論と実験との接触で,これはそれまであまりなかったことであった.私の年代 (終戦の年±2,3年に大学卒) ではまだ理論家は主に素粒子屋で直接実験とは関係なく,実験家はまだ余り核物理自身は専念できず,これを可能にするために働いた先人の感じと似ている.

ところが60年の初め頃から (前記の湯川研のWeisskopfを囲む研究会などがその最初の一つだったが) 理論実験合同の原子核の研究会というのがしばしば行われるようになった.これは主に東大核研がその中心となり,その中で私が特に多くを学んだのは坂井光夫氏が中心になって開いたものに多く,そこではよく理論家と実験家が共通の言葉の模索をした.量子力学の講義を空襲のためまともに聞けなかった我々の年代の者にとって,例えば有馬朗人氏の話はまあわかったが,丸森寿夫氏は大変有難い努力をしてわかるようにと話して下さっても,梵語の説教であった.しかし,お蔭でやはり我々は習っていったのである.しかし今思うと,このころ議論しあったレベルは世界の未知の最先端をいったものだった.

こういう盛り上がりからは色々な線が出てきた.もちろん,その前の先人の仕事も含めながらであるが.まず私の近くで実験の方では,核研の坂井光夫,山崎敏光等によるインビーム核分光学の角分布の測定の導入である.私は大変いけないことであるが,角分布というのは嫌いだったので,余り興味がなかった.これは更に山崎氏により遅延ガンマ線の場合に押し進められ,日本の杉本健三氏等の伝統と合流して核分光学の一ジャンルとして確立し核内中間子の問題を解く鍵にまで発展した.なお,この線では核モーメントの問題が,終戦直後の宮沢弘成氏のモーメントの中間子論と,有馬・堀江の配位混合の理論と相俟って日本の核物理のおはこになっていたので,重要な貢献がいくつかなされた.

インビーム・ガンマ分光学が与えた尨大な核の (主に) 高スピン状態の研究は,世界的に核構造論研究界を賑わしたが,ここでも日本では先人の重要な貢献を更に開花させる一流の理論家達がまっていた.それは朝永振一郎先生が戦後すぐの頃に考えられたいわゆるボゾン展開で,故藤田純一氏や最近では丸森グループで強くその理論的基礎がおしすすめられた.最も特筆すべきこととして,これを定式化した有馬-Iachelloの相互作用ボゾン・モデルはMayer-Jensenの殻模型,Bohr-Mottelsonの集団運動模型とならんで現在核分光実験屋が知っていなければならない三つの重要なモデルの一つとなっている.

以上の盛り上がりの中で,坂井さんは「校長先生」と呼ばれていて,私は副校長を自任していた.そして,そこの先生達で本当に盛り上がりを築いていったのは,我々より次の年代 (私の年代討論によれば6.25年若い) である.どうせ何をやったって食えないのだから学問をやろう.就職の世話をしなくてよければいくらでも私のゼミに来なさい,という朝永振一郎の言葉に導かれてきた人達で,有馬さんにきいたら汽車弁を買ってまず蓋の裏についたゴハン粒を食べる年代だそうである.

この盛り上がりはもう去ってしまったものだが,紙面をいただいたので書きしるしておく.


非会員著者の紹介:

森永晴彦氏は1922年東京生まれ.1946年東大物理卒.同教室科学研究嘱託,助手から1951年Iowa州立大学に留学,1952年から1954年まで同大助教授,1954年から1956年までPurdue大学研究員,1956年から1957年までスウェーデンLund大学研究員,1957年から1960年まで東北大助教授,1960年東大助教授,教授を経て1968年よりMnchen工科大学正教授,1991年退任.専門は原子核物理学,1971年仁科記念賞受賞,1985年Lund大学名誉学位.


*414静岡県伊東市川奈1261-133