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周辺からみた物理

物理学者になりそこねて

俣野 博

〈東京大学大学院数理科学研究科 153東京都目黒区駒場3-8-1 e-mail: matano@ms.u-tokyo.ac.jp〉

現在私は一数学者として,非線形問題の研究に携わっているが,子供の頃は物理学者になるのが夢だった.いつ頃からそう考えるようになったのか,はっきりしない.中学一年のとき,出身小学校(京都市立錦林小学校)の大先輩にあたる朝永振一郎博士がノーベル賞を受賞された.この出来事が,私の目を物理学に向ける一つのきっかけになったのかも知れない.中学時代は物理に関するいろいろな啓蒙書を読むのが楽しみだった.

高校に入っても,物理には特別の親しみを感じていた.しかし正直なところ,啓蒙書を読んであこがれた相対論や量子力学の世界はおろか,高校の物理の教科書の内容にもわからない点が多かった.例えば床の上をすべる物体にかかる摩擦力は,なぜ垂直荷重に比例するのだろうか? 自分なりに幾つか仮説をたててみたが,よくわからなかった.

こうした疑問を解き明かすためにも,早く先端の物理学を学びたいと思った.それにはまず数学の力を養わねばと,線形代数や微分方程式や群論などの勉強を始めた.最初は数学で扱われる概念の高度の抽象性にとまどったが,そのうち数学が面白くなり,深くのめり込んでいった.何より数学ではすべてのルールが明快に述べられており,この点が私のような独習者にはありがたかった.こうして,準備のために始めたはずの数学にすっかり時間をとられ,物理の勉強は一向に進まなかった.

大学に入学し,いよいよ本格的に物理を勉強しようと思った.ところが,なかなかきっかけがつかめない.そんな折り,数学志望の学友たちから数学の自主ゼミに熱心に勧誘された.その活動に首を突っ込んだことが発端で,結局私の専攻分野はいつの間にか数学になってしまった.

しかし3年次の後半に,忘れかけていた情熱がよみがえり,物理をどうしてもやりたくなった.そこで思い切って志望を変更し,4年次の卒業研究は,数学でなく物理を選択した.選んだテーマは光物性だった.卒業までの1年間,私は塩化カリウム結晶に着色中心を生成する実験と関連理論の勉強に取り組んだ.実験は楽しかった.また,実験を正しく行うことがいかに大変であるかも学んだ.

しかし本腰を入れて物理をやり始めて,どうやら自分はこの学問に向いていないのではないかと思うようになった.とりわけ,当時の私は何年も数学に没頭している間にすっかりBourbaki流の公理還元主義に染まっていたため,物理学者のセンスに基づく数式の扱い方に,魅力を感じつつも違和感を拭いきれなかった.いろいろ悩んだあげく,物理をこのまま続けるのは無理だろうと判断し,大学院はふたたび数学に戻ることにした.

かくして物理学者になりそこねた私は,その後20年間,数学者の立場から非線形微分方程式の研究を続けてきた.その間も大衆向け科学雑誌で自然科学関連の記事を読むのは何よりの楽しみだったが,これはあくまで「趣味」にすぎず,職業人としての自分は,数学の論理で物を考え,書き,教えることに徹してきた.つまり,与えられた数式が自然界の諸現象を解明するのにどれだけ役立つかということよりも,その数式の背景にどれだけ豊かな数理的構造が潜んでいるかにもっぱら関心を注いできた.また,それこそが数学者の本分であると考えてきた.

ところが最近になって,数学理論そのものに対する物理学サイドからの寄与が増えてきた.Feigenbaum定数の発見は力学系を研究する数学者たちが舌を巻く見事なものだったし,ミラー対称性の提唱は,他分野との関わりが最も希薄と思われていた純粋数学の中核部に衝撃を与えた.この他,ある種の物理学原理から数学の難しい結果が手品のように得られたり,物理学者が見つけたさまざまな方程式に数学者が深く啓発される例が,急速に増えてきている.私の知っている気鋭の若手数学者も,彼の目指す壮大なトポロジーの理論の建設に役立てるため,物理学を真剣に勉強している.このようなことはひと昔前には考えられなかったことである.

数学という学問分野では,過去数十年続いた一般化・抽象化の時代が一段落し,より個別的・具体的な問題の研究を通して新しい発展の方向を探る時代に入りつつある.数学者と物理学者の接触の機会が(まだ特定の分野に限られているとはいえ)以前に比べて増したのは,このような時代の流れを反映したものであろう.

私自身のことを振り返ると,せっかく物理と数学の接点に位置する題材を研究しながら,物理学者を目指した過去の体験を自分の研究に十分に生かしきれてないのが悔やまれる点である.しかし今からでも遅すぎることはないだろうから,物理の専門家たちとの交流をこれまで以上に積極的に進め,自らの研究に役立てていきたいと考えている.また,近年物理学者たちが数学者のお株を奪うような見事な数理理論を次々と提起している現状に,ただ感心しているわけにもいかないから,我々数学者としても,ここらあたりで,物理学の諸分野に広く影響を与える理論を久々に打ち放ちたいものである.それがすぐに実現するかどうかはともかく,数学の学生や研究者が物理を勉強するのは,数学の健全な発展のためにも有益であるのは言をまたない.そこで,数学の専門家にも理解しやすい物理の本,場合によっては数学者を対象とした物理の教科書が,今後どんどん出版されることを切に願う次第である.