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50年をかえりみる

半導体素子研究の周辺

菊池 誠

〈東海大学工学部 259-12神奈川県平塚市北金目1117〉

1. 初めに

半導体素子について戦後50年の歴史を振り返る時,はじめに書き留めておかねばならないことがある.

一番大切なのは,“落ち”のないような記述はとてもできないということである.思い出を辿るとこの歴史の舞台には実に沢山の先輩友人が登場し,その人達が縦横に活躍された.いわゆる公平を期して,文献などを支えに正確に述べようとしたら,とてもこの紙面には収まらない.1972年にトランジスタ誕生25周年を記念して,私がある科学雑誌で特集号を作る手伝いをしたことがある.その時,昔の研究開発指導者の方々に話を聞いて回ったのだが,驚いたことに,すでにそれらの人達の記憶に相当の食い違いがあり,しかも,それぞれ自分が正しいという確信を持っておられた.25年にして然りである.50年となれば一層のことだとまず言い訳をして置かねばならない.

したがって,ここでは文献の引用などはしないで,歴史の流れの大筋を辿ることにする.それも完全に網羅することはとてもできないから,私の研究の道筋からそう遠く離れない部分を描いて見ることを許していただきたい.また出てくる人については,先生,さん,君などと呼び馴れた言い方をしたいけれども,ここでは一律敬称略とする.

前置きとして一番大切なことに触れる.半導体素子の研究の展開の最も際立った特色は,それが三つの領域が重なりあった所で常に進められてきた,ということである.これは,実は今日のエレクトロニクスという技術の基本的な性格でもあるのだが,それは

(1)半導体デバイスの機能の研究,

(2)その機能に関する半導体物理の研究,

(3)そのデバイスを作るプロセス技術の研究

という三分野である.1947年12月にトランジスタが生まれた時,この基本的性格が運命づけられたと言っても良い.また,それがこの50年の研究と技術開発の絢爛豪華な発展の基礎となったということもできる.

したがって以下の話には,陰に陽にこういう性格によるゆらぎが出てくる.半導体デバイスだけの話に限定できないのはこのためである.


2. 歴史的な背景,そして事の始まり

今,半導体デバイスというと大抵トランジスタを思い浮かべる.ところが,1948年6月にベル電話研究所が6カ月の沈黙を破って記者会見をして,トランジスタを初めて世界に公表するまでは,何もなかったのかというと,そうではない.そのことは,日本にトランジスタの情報が入って来た後,この方面の仕事を誰が主として支え展開してきたかを見ると分かる.それは,半導体整流器の研究者,それから電子放射の研究者達であった.

半導体デバイスの研究の戦後の中核の一つはセレン,亜酸化銅の整流器の研究であった.その頃の興味の中心は,何処でどうやって整流現象が起こるのかということであった.大阪大学の山口次郎,九州大学の岡崎篤義,名古屋大学の小野満雄,その他多くの人達が大学から,そして整流器の企業の研究開発の仕事をする研究者達が東邦産研(サンケン電気),オリジン電気,新電元,など多くの会社から,この分野の研究に取り組んでいた.これが今日の半導体研究,デバイス研究の育つ下地としてあったわけである.

物理学会のセッションでは,中心課題はバリアの構造と整流のメカニズムであった.当時大きく別けてバリアにはモット・バリアとショットキー・バリアとがあり,やがてこれらを取り込んで複合バリアと称する理論を展開する人もいた.山口次郎が部屋の外にまで聞こえる大音声でこの複合バリアを論じていたのを思い出す.

しかし,後にG. Pearson (Stanford大学)が“これら整流器の技術というのは所詮,科学ではなくアート(技能)であった”と書いたように,理論的には不明で経験に依存する部分が多かった.ある会社では一箱分のセレン整流器だけ特性が良いということに注目,調べてみたらそれらだけ陰干しをするときトイレの側に置いたことが分かったというので,もしかするとアンモニアが特性に影響を与えるのではないかと真剣に議論したこともあった.


3. トランジスタのインパクト

今日ではトランジスタの情報が日本に伝わった頃の話はマスコミで度々取り上げられ,良く知られるところになった.それは間違いなく,昭和時代の“蘭学事始め”であった.戦争で世界が見えず,生死の境で生きてきて,やがて終戦.その3年後に入ってきたのが,結晶で増幅が起こると言うニュースであった.この情報を受け取り,日本に的確に植え付ける仕事を果たされた我々の先輩の多くは,すでに故人となられた.

永田町の首相官邸のすぐ下,溜池に降りてくる細い道の所に通産省電気試験所(現電子技術総合研究所)の本部があった.トランジスタ情報がある程度まで伝わった頃,この電気試験所の所長室でトランジスタの委員会が開かれるようになった.正面に東北大学の渡辺寧,その左隣に所長の駒形作次,右隣に鳩山道夫,これは定席であった.この委員会の構成メンバーに東大の久保亮五,山下次郎,東芝から小林秋男,戸村正夫,などの人達が加わった.これは今も記憶に残る日本の戦後の創成期の一ページであった.そこでは,トランジスタの増幅についてあらゆる憶測が大胆に提案され,議論された.“インジェクションとは一体何だ?”と茶を飲みながら口角泡を飛ばして論じたものである.しかし誰も本当のことは知らない.渡辺寧は時々プリントを持ってきて,“増幅の理論を考えた”と配る.口の悪い小林,鳩山は“ほら,また怪文書だ”,と半畳を入れる.こういう闊達で自由な雰囲気であった.まだ点接触のトランジスタの情報が中心だったから,メカニズムの説明などで出来よう筈がなかった.しかし,こうして日本に新しい半導体,トランジスタの研究基盤が構築されていったのである.


4. 追試から本格化へ

トランジスタの追試をすることさえ当時の日本では難しいことだった.Bell電話研究所で長いドラマの末に見出した効果は,ほとんどがゲルマニウム結晶による実験で,一部シリコンを用いていた.もちろん当時の日本にゲルマニウム結晶はない.ここで一部の人はシリコンで試してみようと仕事を始めた.鳩山道夫が持ってきたシリコン結晶で実験を試みた私も,その一人であった.

もう一つの道は先に述べた委員会で模索された.それは日本の鉱山土壌の中からゲルマニウムを取れないかという探索であった.この仕事は数年に亘って進み,1955年を過ぎて,三菱金属工業の鉱山の亜鉛採取の副産物から取る工夫と,東京ガスが石炭を燃やした時その灰から取る工夫とが,最後に詳しく検討されることになる.

1950年代に入って,半導体デバイス,つまりトランジスタを中心とする研究,半導体結晶を作りそれからトランジスタを作る技術の研究,そして半導体の電子現象を支える物理の研究がいよいよ本格的に動き出す.

ここで,私たちはまず痛烈な技術のカルチャーショックを経験する.それは生まれてから想像もしたことのない,99.99999999%という途方もない純度を相手にするという経験.これで実験屋は心の入れ替えを迫られるわけである.こんな純度を扱う道具,材料の準備が日本の社会にはまだ全くできていなかった.結晶を溶かす入れ物にグラファイトを使おうとしても,日本で手に入るグラファイトの純度は99.9%が限度.高純度のガスを求めても工事現場の溶接用ボンベを持ち込まれる.

考えてみると,このカルチャーショックは極めて本質的で,実は半導体の“構造敏感”な性質からきている.この性質こそがトランジスタを可能にしている本質的な特色なのだから,この純度をこなさなければ新しい技術を学ぶことはできない.同時にそこに半導体の最大の魅力の源泉もあるわけであった.

少しずつ日本の研究者は結晶作りを経験し,その材料でトランジスタ物理を自分の肌で学び,これでデバイスの研究に取り組むことができるようになる.

それでも,日本の研究所で当時作れるゲルマニウムやPN接合の程度は,米国のレベルに達しなかった.この,成果のレベルの凹凸は歴史的に見て非常に教訓的である.

私が1950年頃に手掛けた研究の一つは,点接触トランジスタのエレクトリカル・フォーミングであった.半導体結晶に二本の針を立ててもそれで良い増幅特性が出るわけではない.コレクタ(出力側)の針に電気ショックを与えると,初めて良い増幅特性になる.この操作をエレクトリカル・フォーミングと呼んだ.私はこの現象の本性をはっきりさせようと研究し,その成果をレターとして米国の学会誌に送った.これに対して,レフェリーから本論文にして送るよう勧める返事が来た.実はエレクトリカル・フォーミングという処理は,点接触トランジスタのメカニズム同様,米国でもまだ良く分からない状態にあったのである.

これに対し,同じ頃,電気試験所のグループで初めてシリコンのPN接合を作ることに成功し,その容量などの特性を検討した論文を,同じくレターとして米国の学会誌に送った.この方はにべもなく返送されて来た.

“このようないい加減な性能のPN接合によるデータでは……”

とあった.我々は骨身にしみて結晶処理技術の水準の差を思い知らされたのである.


5. 企業の始動

日本の企業は半導体デバイスの展開に極めて強い興味と関心を持っていた.ほとんど主な企業のすべてが研究者,技術者を編成して挑戦していた.当時まだトランジスタの特性は不十分なものだったが,日本独特の“触発”が始動していた.このことは当時米国がトランジスタの将来に向かってどのように対応し,どんなプロジェクトを持っていたかを見ると良く分かる.

米国から見ると,日本の企業が1954年には本気でトランジスタ・ラジオを商品として作ろうとしているのは,児戯に類すると写った.ところが,例えばソニーではとくに社長の井深大が先頭に立って小型ラジオのプロジェクトを進めていた.この頃すでに接合型トランジスタが生れていたが,合金処理で作ったものは周波数特性が1メガヘルツやっとで,ここで大きな難関にぶつかった.この時,この開発のグループの統率者は物理学者,塚本哲男だった.塚本は単結晶を引き上げる技術を基本とする成長型トランジスタに挑戦し,問題を基本の物理学に引き戻し,トランジスタのベース領域を薄くし,エミッタ領域の不純物ドーピングをできるだけ深くする工夫を徹底的に追及したのである.こうして燐とインジウムを投入する新しい方法を見つけ出す.後に彼が米国に出張した時,Bell電話研究所から招かれ,その仕事の話をすることを求められた.実は,Bellではこのやり方で成功していなかったので,塚本達ソニーの成功を信じられなかった.

これは一つのエピソードに過ぎないが,日本での半導体デバイスに拘わる研究と開発のその後の展開をそのまま代表している.今日の日米の半導体摩擦の芽がすでにそこに見えているわけである.

品質管理でDemmingという教授の名前が有名である.Demmingの方法を使って成果を出し,はやばやとDemming賞を受けたのは日本の企業であった.トランジスタでNobel賞を受けた三人のうちの一人,John Bardeenは後年,自分達の生んだトランジスタを民生用に発展させ社会の人達に喜びを伝えてくれたと,日本の工業に感謝の気持ちを度々述べておられた.


6. 研究の展開

日本の結晶の質も,1950年代から1960年代に進むにつれて,かなり良くなってきた.それが一番良く分かるのは,少数キャリアのライフタイムとエッチピットの数の変化である.ゲルマニウムでライフタイムが100マイクロ秒の桁になり,それが300, 500という値になると,デバイスに使う上で及第である,そしてキャリア・インジェクションのからむ現象を見る上にも十分ということになる.

日本の物理学会では1950年代中頃から,インジェクションなど半導体独特の現象の研究が花盛りとなっていった.半導体の研究には大きな二つの魅力があった.一つは半導体が未知の宝庫で魅力に富み,大学を卒業して間もない若僧でも,何か“新しい現象”を見つける機会を常に持っていた.もう一つ,先輩後輩の区別が殆どない.すでに出来上がった学問では,先輩は絶対に後輩より沢山の経験と知識を持っているが,半導体は新しい分野なので後輩が先輩を意識しないで済む.これは実に壮快だ.

私達は物理学会のセッションに何か新しい発見やアイデアを持ち寄って喋る.それを聞き手が競ってこき下ろす.半導体のセッションを端から見たら,言いたい放題で喧嘩ごしに見えるけれど,当時の我々はそれを何よりも楽しんでいたのである.実際私は当時,映画館に映画を見に行くよりも学会のセッションに行って議論する方がはるかに楽しかった.当時の仲間は皆そうだったのである.

半導体デバイスといっても,デバイスだけでなく,電子現象,とくにキャリアが注入されて,そこに何か面白いカラクリが生じるようなことがいつも話題になった.こういう状態を“固体プラズマ”と総称した.期待するのは電流の振動が発生したり,負の抵抗が現れるといった現象で,皆心の中で,それによって新しいデバイスを提案できるかも知れないと思っていた.これは日本だけでなく,米国で開かれる国際会議でもこの方面の研究者の共通した興味であった.負の抵抗に着目するのは,“能動デバイス”の可能性とつながるからであった.

日本の研究者が国際会議で外国に出て論文を発表するようになったのは,大体1960年代に入ってからである.私は1963年のMichigan大学でのSSDRC(固体デバイスコンファレンス)が最初で,その時江崎玲於奈がすでにIBM研究所から参加,ほかに日本人は一人だけだったと思う.その後,とくにデバイス研究,プロセス技術関係では今日まで日本人研究者の発表は増加の一途を辿っている.


7. 表面の研究

1955年頃半導体デバイスの大きな問題が発生した.劣化である.本来,真空管の時代を終焉させて登場したトランジスタは,“死なない”ところに一つの特色があった.フィラメントのないデバイスでは“切れる”ものがないから寿命は無限大の筈であった.

Raytheon社がトランジスタを入れて作った補聴器に“聞こえなくなる”というクレームが発生したのである.同社は大量の商品を,意識的にDenverとBrownsvilleという,それぞれ典型的な乾燥地と湿潤地とに出荷して,劣化が外気の湿度に依存するかどうか調査した.

私の電気試験所の研究グループでは,国産,輸入のトランジスタを4種の条件で強制劣化させる研究を始めていた.この劣化が,実は半導体表面の研究に大きな一石を投じる機会を作り,さらにプレイナ・トランジスタという決定版を生む機会をも作ることになったのである.

もともと半導体にとって,“表面”はアルファでありオメガである.1947年,ベル電話研究所でShockleyが結晶増幅器の実験に失敗続きで苦労しているとき,結晶表面の物理の研究に一度戻ろうではないか,と提言したのがBardeenであった.そして彼はかの歴史的な“surface states”の仮説を導入する.この仮説の検証の役目を負ったBrattainが表面の実験を繰り返す内に,思わざる偶然から増幅現象が発見された.これが本当のドラマの推移である.だから半導体にとって表面は宿命的関連を持つ.

さて劣化が起こった時,一体この劣化は何が引き起こしているのかという問題が研究者の興味の中心になった.その中で面白いのが,引上げ法で作った,成長型トランジスタを使った簡単な実験だった.この型のトランジスタのコレクタ電極に逆方向のバイアス電圧をかけ,エミッタ電極の浮遊電位を測るのである.コレクタにかける電圧を上げて行くと,“健康な”トランジスタならエミッタ電位はわずか1ボルト近傍の値で飽和する.ところが劣化したトランジスタではエミッタ電位はどんどん上がっていく,ということが見いだされた.この簡単な実験からベース領域の表面に沿って,ベース領域の少数キャリアの流れる“通り道”が形成されていることが判明した.これをチャンネルと名付けた.エミッタとコレクタの多数キャリアは,このチャンネルという脇道を通って難なく行き来できる.こういう実験の積み上げから,1950年代後半には,半導体表面の新しいモデルができあがった.結晶表面には酸化膜ができている.その酸化膜と結晶本体との間に応答の早いsurface statesがあり,酸化膜の中には応答の遅いsurface statesがある.つまり前にBardeenが提示したモデルから一歩立ち入った構造を持つ表面がわかってきた.デバイスの劣化だけでなく,特性の解析,ノイズの発生,その他,表面は新たに興味の中心となった.

このことから,研究に二つの流れが発生した.

(1) real surface,

(2) clean surface

の二つで,やがて物理学会のセッションにもこの二つが別別に成立することになる.

real surface派は現実のデバイスや実験試料は空気に接しているから,どうしても酸化膜もできるし,イオンも付着する.その状態こそ重要な研究課題だと主張する.一方clean surface派は,そもそも表面とは,結晶が割れてそこに顔を出す面のことである.何か付着するのは後の話,表面その物を何処までも追及するには,この割れた直後の面を調べる必要があると考える.

real派は日本では小林秋男はじめデバイスの研究者が多く,私もこの派にいた.米国ではBell研究所をはじめ,Fairchild社のNoyce.そしてNoyceはこの酸化膜の研究の途中で有名なプレイナ・トランジスタを作り出す.ちなみに,彼のこの特許のポイントは,トランジスタを作る全行程を通して,結晶の大切な表面部分の上の酸化膜を除去しないで保持する,というのである.

clean派では学習院大学の川路紳治がこの道を進み,独特の実験方法を工夫した.マグネットで吊った楔を落として結晶を割り,その時できた表面を観測する.このclean派の仕事から波及効果が現れた.それが超高真空の技術である.マイナス6〜7乗では駄目で,10〜12乗の真空を作り保つという真空装置の開発が,この研究の周辺から刺激を受けたのである.


8. そして

そして,1960年代にGunn効果と半導体レーザーの大きな課題が生まれる.一方,集積回路の関連ではプロセス技術の壮大な進展が続く.1970年代には化合物半導体のプロセス技術に二つの流れが生じ,やがてトンネル顕微鏡で原子分子が見える時代に入った.まさに技術の進歩が学問に強烈なフィードバックを与える時代に足を踏みこんだわけである.

半導体レーザーは今オーディオ機器等の中で一年間に1億個が使われ,発光ダイオードは年間50億個のビジネスになった.

日本で開かれる固体素子コンファレンスに1970年代終り頃,沢山の米国研究者が大挙して参加した.次の研究と開発の展開を読むには日本の連中の話から何かを探ろう,と本気で考えたという.日本での集積回路の研究と開発は欧米にいろいろな話題と問題意識を生んだ.

半導体素子の研究の歴史を振り返ると,戦後の日本の回復復興に汗を流した先輩達の顔が見える.

これからいよいよ日本の研究の真価が問われる時代に入ることになる.


非会員著者の紹介:菊池誠氏は1925年東京都生れ,1948年東大物理卒.通産省電気試験所(現・電子技術総合研究所)入所,菊池特別研究室長を経て1974年退官,ソニー株式会社中央研究所長となり,常務取締.1989年同社技術顧問,1990年東海大学教授.専門は半導体物理学,電子デバイス.1994年神奈川文化賞.