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周辺からみた物理

国民は物理学をどう見ているか

柴田鉄治

〈朝日新聞総合研究センター 104-11東京都中央区築地5-3-2〉

日本物理学会の50周年,おめでとうございます.記念特集号に外野から見た感想を書くようにとの依頼を受けました.大変,難しい注文であり,それに,私自身,かつては物理学にあこがれ,大学まで物理系の研究者になることを夢見ていた人間ですので,純粋の外野ともいえません.ただ,大学から社会に出る時,アカデミズムからジャーナリズムへと転身した人間として,常に,物理学と社会との中間に位置して来たとはいえるようにも思いますので,期待に添えるかどうか分かりませんが,「国民は物理学をどうみているのか」というテーマで一文を書いてみようと思います.


敗戦時,反物理にならなかった不思議

日本の敗戦で太平洋戦争が終わった時,日本国民の物理学に対する意識が,けっして否定的ではなく,むしろ肯定的であったことは不思議なことでした.

というのは,当時の日本は,物理学の象徴ともいうべき航空機の性能で,連合国に圧倒的な差をつけられ,B29爆撃機から徹底的な空襲をうけて,国中が廃きょと化したのです.そしてさらに,決定的な最後の一撃ともいうべきものが,物理学の粋といっていい原子爆弾でした.

国民は,肉親を失い,家を焼かれ,逃げ惑い,命からがら生き延びたのです.物理学に対して「恨み骨髄」,反物理学感情が渦巻いてもおかしくなかったはずなのです.

ところが,そうはなりませんでした.それどころか,日本国民は,このような惨禍を招いたのは「日本は神州だから最後は神風が吹いて勝つ」といった非科学的な考え方が横行し,それでこんな無謀な戦争に突入したからだ,と考えました.そのため「これからはもっと科学的な考え方を広めなくてはいけない」「物理学をはじめ科学技術の発展に力を入れて日本の復興を図らねば」という方向に国民意識は動いていったようです.

このことは,考えてみれば幸運なことでした.物理学への恨みや反科学の方向に動くのではなく,正反対の科学立国の方向へ戦後の歩みを踏み出したことが,その後の発展をもたらす原動力となったからです.

つまり,戦後の国民意識は,物理学そのものは人間を幸せにするものであって,けっして悪いものではなく,原子爆弾をはじめとする戦争の惨禍は,物理学を悪用した結果なのだとという考え方をとったわけです.


湯川博士のNobel賞が物理礼賛に拍車

そこに,1949年のNobel物理学賞に湯川秀樹博士が決まりました.当時,敗戦に打ちひしがれた国民を励まし,立ち直らせたのは,水泳の古橋広之進選手の世界記録と湯川博士のNobel賞だったとよくいわれますが,湯川博士のNobel物理学賞に対する日本国民の喜びは,大変なものでした.

物理学に対する国民の意識は,あこがれに近いところまで昇華し,科学信仰,物理学信仰に近い感情まで生まれてきたといっていいでしょう.

折から,核兵器の廃絶を目指す「Russell-Einstein宣言」が出され,それをきっかけに57年,核廃絶を願う科学者たちが集まってPugwash会議が結成されました.それに湯川博士と朝永振一郎博士が参加したことで,「やはり悪いのは物理学ではない.『物理学者の良心』はひときわ立派だ」と国民の信頼感はいっそう高まったのです.

奇しくも今年度のNobel平和賞にPugwash会議が選ばれたのも,原爆投下から50周年,Russell-Einstein宣言から40周年にあたり,しかも核廃絶を願う人々の思いが一段と盛り上がったからでしょう.


バラ色一色だった原子力

物理学が悪いのではなく,軍事利用が「悪」なのだ,という国民の意識は,実際に原子力開発が始まってからいっそう鮮明になりました.核エネルギーの平和利用は「善」なのだと考え,バラ色の夢を抱いたのです.

当時,原子力という言葉がどれほど明るく,力強く,希望に満ちたイメージをもっていたか,それは,55年の新聞週間の標語に『新聞は世界平和の原子力』というのが選ばれていることでも,はっきり分かります.いまのように国民の評価が割れていたら,こんな標語が選ばれるはずはないからです.

具体的にも,日本原子力研究所の設置場所をめぐって誘致合戦が展開されたり,原研の一号炉が臨界に達した時には,小中学生の旗行列まで行われたりしたのです.原子力産業会議が設立されると350もの会社が殺到し,大学も,近畿大,立教大,武蔵工大,京大などが,競うように原子炉を建造しました.

現在の原子力に対する反対論の強さを指して,日本は広島,長崎,ビキニと三回も放射能の被害を受けており,そのため,核アレルギーがひときわ強いからだという意見をよく聞きますが,それは明らかに違います.原子力開発が始まって最初の十余年間は,反対論などほとんどなく,バラ色の期待一色だったのです.

原子力に続いて,57年にソ連のスプートニク1号が打ち上げられ,宇宙開発が話題をさらいました.米ソ対立の厳しい冷戦下とはいえ,宇宙開発をめぐる米ソの競争は,夢とロマンにあふれ,科学技術の素晴らしさ,そのもととなる物理学の素晴らしさを人々に強く印象づけました.


公害・環境問題でイメージ一転

原子力や宇宙開発に象徴される科学技術礼賛,ひいては物理学礼賛の空気が一変するのは,70年代に入って公害・環境問題がクローズアップされてからです.それまでは,物理学の進歩が科学技術の発展をうながし,それが人々の生活を便利にし,豊かにする原動力だと思われてきたのが,実は,そうではない,一方で環境を破壊する『元凶』でもあるという見方が生まれてきたのです.

公害問題で大きくイメージダウンしたのは,物理学より「化学」の方だという指摘があるかもしれません.たしかに,水俣病や四日市ぜんそくなどを引き起こしたのは化学工業であり,それに農薬,合成洗剤,食品添加物など化学物質そのものへの風当たりも強く,化学は袋だたきにあいました.実際に化学を学ぼうとする人が減って,日本化学会が「化学の復権」にやっきとなった時代があります.

物理学は,化学のかげに隠れてイメージダウンをまぬがれたように見えますが,けっしてそうではありません.環境問題が提起したものは,近代文明そのものに対する疑問でした.「大きいことはいいことだ」「速いことはいいことだ」「便利なことはいいことだ」とひたすら追い求めてきた近代文明を,このまま推し進めて行っていいのだろうか,果たして環境はもつのだろうか,という疑問だったのです.

近代文明といえば,とくに20世紀に入って急速に発展した科学技術の特徴は,といえば,なんといっても物理学です.20世紀は物理学の時代だったといっても過言ではないでしょう.

先日,ある会合で「20世紀をひと言で象徴する最もふさわしい言葉は何か」が話題になりました.「戦争」「国家」「社会主義」といった言葉が出ましたが,やはり最もふさわしいのは「科学技術」だろうという結論に落ち着きました.その理由として挙げられた,素粒子,核エネルギー,航空機,宇宙,電話,テレビ,コンピューター,などの例は,すべて物理学をもとに発展したものです.

生物学での最大の成果といわれる遺伝子の発見,遺伝子組み換え技術の誕生も,いうなれば,生物学の物理学的手法による解明とでもいえましょう.


壁に突き当たった近代文明

この物理学主導の近代文明が,いま,二つの大きな壁に突き当たっているといわれています.一つは「地球の限界」という壁です.

70年代に入って環境問題が大きく浮上してくるまで,人々は地球のキャパシティーは無限だと考えてきました.もちろん,資源にせよ,環境にせよ,地球という限界があって,有限であることは頭の中では分かっていたのですが,実際には無限と考えて何ら困らなかったのです.

それが,最初は身の回りの公害問題から,やがては,地球規模の環境問題まで関心が広がって,「地球の限界」が目の前に迫ってきました.このまま近代文明を推し進めて行けば,資源も環境ももたないことが分かってきたのです.

たとえば,バラ色一色だと思っていた原子力も,地球上にどんどん蓄積されていく放射性廃棄物の処理をどうするか,という難問に突き当たり,それに事故による放射能汚染の恐怖も加わって,必ずしもバラ色でないことが分かってきました.また,フロンという物質は,発明された時には科学の勝利といわれたほど優れた性質をもっていたのに,地球のはるか上空でオゾン層を破壊していることが分かりました.

石油を燃やしすぎて大気中の二酸化炭素の量が増え,温室効果による地球の温暖化が心配されています.大昔の地球がじっくりと太陽エネルギーをため込んでつくった化石燃料の,実に10万年分をいま1年で使っているのですから,さすがの地球もたまったものではありません.

大きいことはいいことだ,とひたすら走って来た近代文明が,このまま進めば地球の限界に衝突して破滅への道を歩むことになるのは目に見えています.

この地球の限界を人々にはっきり認識させてくれたのが,近代文明の粋ともいうべき宇宙開発だったという点は皮肉というほかありません.宇宙から地球を見ることができたことによって,地球の小ささ,もろさ,壊れやすさがはっきりと分かり,そこから「地球を守れ」という環境キャンペーンが生まれたのです.物理学が「豊かさを生む源泉」から「環境破壊の元凶」に変わる,そのきっかけがまた物理学だったというわけです.


問われる科学の倫理性

もう一つの,さらに大きな課題は,だれのための科学か,何のための物理学か,どこまで推進していいのか悪いのか,という科学の倫理性がはっきりしないことです.

最も分かりやすい例は,核兵器でしょう.物理学者が開発した核兵器は,人類を破滅の淵に追いやり,しかも,いまや全人類を何回も何回も繰り返し殺せるほどの量を蓄積しているのです.人類は,核兵器廃絶への道をいまだに探りあぐね,廃絶どころか,いまもなお核実験を行っている国もあるのですから,なにをかいわんやです.

今年,オウム真理教事件が起こり,日本中ががく然としました.若い科学者たちがせっせとサリンをつくりだす姿に戦りつを覚えた人が少なくなかったのですが,「せっせと核兵器をつくりだした物理学者たちの姿とどう違うのか」と問い詰められると,答えに窮します.

Pugwash会議などに参加した物理学者たちの良心や善意を疑うわけではありませんが,現実に核兵器がなくならない以上,科学の倫理はいまだに確立されていないといっていいでしょう.

遺伝子組み換えの技術を例にひくと,さらに分かりやすいかもしれません.遺伝子レベルにまで踏み込んでさまざまな操作ができるようになったことで,遺伝子治療への期待が広がり,現に一部はスタートしました.病原体に起因する病気がしだいに克服されつつあるなか,最後に残る病気は遺伝子に起因するものではないかといわれているだけに,遺伝子治療で難病が克服されるようになれば大変な福音でしょう.

その一方で,この技術がもつ可能性として,遺伝子を操作して人間を改造しようという試みが出てくるかもしれません.とくに,この技術と体外受精の技術がむすびつくと,クローン人間をつくろうといった話まで出てこないとも限りません.

遺伝子を操作して人間を改造するなどということは許されないはずですが,では,遺伝子治療と人間改造との間に明確な一線が引けるかというと,そう簡単なことではありません.いまの科学は,この一線を超えてはならないという限界を定める「哲学」というか「倫理」をもっていないからです.

物理学からちょっとはみ出す話のようにも見えますが,これも物理学主導の近代文明が直面している壁の一つです.科学がひとり歩きする危険にどう歯止めをかけるか,それが科学者自身にも分かっていないのです.

科学は必ずしも人間を幸せにするとは限らない「両刃の剣」である,という認識とともに,「科学がどんどん進歩することに不安を感じる」という意識が国民の間にひろがりつつある,というのが現在の状況だといえます.

このようにみてくると分かるように,国民の物理学を見る目は,礼賛と不安の念が入り交じった,複雑なものだといえましょう.尊敬はするが,いまひとつ不気味なところもあって溶け込めない,一言で表現すれば,敬して遠ざける威敬の念とでもいえましょうか.


深刻な青少年の「物理離れ」

こうしたことと直接,関係があるかどうか分かりませんが,いま,青少年の「理科離れ」,なかでも「物理離れ」が目立っています.物理学を学ぼうとする人が減りつつあるのです.日本物理教育学会でも,危機感をもって,どう対応すべきか対策を模索しているようです.

ひとつは,小中学校での理科教育に問題がありましょう.知識としての詰め込み教育に偏って,観察や実験など理科のたのしさを教えることが足りないという指摘は,かねてから言われていることです.また,高校では,大学入試に物理が有利かどうか,といったことが焦点となってしまって,物理学の本当の面白さを味わうところまで,とてもいかないようです.

さらに,理科離れを決定的にしたのは,「バブル経済」でした.理科系の学生まで銀行や証券会社に殺到したわけですが,それは,給与などの待遇がメーカーや研究機関などより格段によかったからです.「これでは文系より勉強も大変な理系へ行っても得なことはない」といった風潮が広がり,理科離れに拍車がかかったようです.

バブル経済の崩壊で,こうした現象はすっかり影をひそめましたが,理科離れ,物理離れだけは,後遺症として残ってしまいました.大学の理系に優秀な学生が集まらなくなったという現象は,いまも続いているようです.


Faraday, Gamow出でよ

理科離れ,物理離れに歯止めをかけるにはどうしたらよいのか,まず,第一には,小中高校の理科教育に一大奮起を期待したいと思います.教科内容や教え方を大改革し,観察や実験のやり方も斬新で興味深いものに切り替えていくことが大事でしょう.

そこで,物理学会の会員の方々にお願いしたいことが,三つあります,一つは,小中高校の教育の現場に優秀な研究者を送り出していただきたい,ということです.小中高校の教員に人を得なくては,理科離れに歯止めはかからないでしょう.教育者より研究者の方がステイタスが上,といった考え方をなくしていくことが大事です.

二つ目は,社会に対してもっと発言をしてほしい,ということです.先にも触れたように,国民は科学の進歩に感嘆しながら,一方で不安と不気味さを感じています.「地球の限界」との衝突にせよ,科学の倫理性の欠如にせよ,国民は専門家から自信をもった説明を聞きたがっています.たとえば「科学のそうした行き詰まりを解くカギは,やはり科学がにぎっているのだ」ということなら,そのことを自信をもって発言していただきたいのです.

ちょっと変な例かもしれませんが,東大の原子力工学科が「システム量子工学科」と改称しました.それなりの理由はあるのでしょうが,外から見ると,原子力の人気が落ちたので,名前を変えてイメージアップを図ろうとしたようにみえます.

もしそうなら,この自信のなさはどうしたことでしょう.原子力に対する世間の風当たりを真っ正面から受け止め,「こういう難しい状況に原子力は直面している.これを打開する道は,新しい技術突破しかない.それをやる人はいないか」と訴えてこそ,優秀な学生たちも集まってくるのではないかと思うのですが,いかがでしょうか.

三つ目は,青少年向けの優れた啓蒙書を書いていただきたいことです.Faradayの『ロウソクの科学』とか,Gamowの『不思議の国のトムキンス』のような優れた啓蒙書が,日本にはあまりないような気がします.実は,私が物理学を志したのも,高校時代に読んだガモフの一連の著作がきっかけでした.

日本からも,第二のFaraday,第二のGamowが続々と出てくることを期待したいものです.


相互の業績評価を活発に

教育の面だけで物理離れに歯止めがかかるというものでもないでしょう.最も効果的なのは,日本から素晴らしい業績が飛び出すことです.ちょうど湯川博士のNobel賞が日本中の青少年を奮い立たせたように,あっと驚くような業績が飛び出せば,空気はがらりと変わるでしょう.

日本の物理学の業績を上げるには,どうしたらよいのでしょうか.優秀な人たちが志をもって参入してくることが第一かもしれませんが,現状の中での改善策も考えるべきです.

日本の大学や研究機関について,最大の欠点は業績の評価がしっかりなされていないことだ,とよく言われます.評価がなされないことをいいことに,努力を怠る研究者が少なくないことも事実です.

このことは,かねてから指摘されてきたことですが,文部省の大学審議会はこのほど,そのことをズバリと言い切って,任期制の導入を提言しました.「いったん大学教員に採用されると,業績評価が行われず,年功序列的な人事が行われ,教育研究が停滞している」と表現もなかなか手厳しいものでした.

「和をもって尊し」とするのは,日本社会の特徴の一つであり,互いにかばい合うのは,大学だけの話ではありません.「他人のことは,とやかく言わない」から「自分のことも言ってくれるな」という形で,なされるべき批判まで互いに手控えてしまうことは,よく見られる光景です.和を尊ぶことと,きちんと業績評価を行うこととは,本来,全く別の話なのですが,互いに評価を厳しく行うことにより生じる摩擦を避けようとするのでしょう.

いずれにせよ,業績評価がきちんと行われていないために学界全体が停滞している面があることは確かです.遅ればせながら,業績の評価の大事さがあらためて見直され,さまざまな動きが出てきたことは歓迎すべきことです.東大物理学科や理化学研究所を先頭に,あちこちの大学や研究所で「外部評価」が始まったのも,貴重な試みだといえましょう.

物理学にかぎりませんが,学者同士,互いにもっともっと厳しく業績評価を行うべきです.それによって,日本の学界のレベルもぐっと向上するに違いありません.

日本物理学会も,相互に業績を評価し合い,批判し合う,そしてチェック・アンド・バランスによって全体を高めて行くような学会になってほしい,と私は心から願っています.


非会員著者の紹介:柴田鉄治氏は1935年東京生まれ.1959年東大地球物理卒.同年,朝日新聞社に入社,東京本社社会部員,福島支局長,論説委員(教育,科学担当),科学部長,社会部長,出版局長,論説主幹代理を経て,現在,総合研究センター所長兼論説委員.著書に『科学報道』など.