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周辺からみた物理

日本の物理学界への期待--実学に戻れ--

浅井彰二郎

〈(株)日立製作所基礎研究所 350-03埼玉県比企郡鳩山町赤沼2520 e-mail: asai@harl.hitachi.co.jp〉

日本の物理学界(コミュニティ)に期待することは,何より,科学的な深みと,応用的な広がりの両面において,世界の最先端を行く研究をどんどん進めることである.

世界の最先端を行く研究をするためには,研究テーマの選定がもっとも重要である.先日,ある外国の科学技術研究予算の申請査定結果を見る機会があった.その第一の判定基準にも,「テーマの重要性」が挙げられていた.日本ではこれは「学問の自由」の名のもと,判定不能の聖域とみなされることが多い.科学の素養を持つ普通の人の価値判断に訴えて重要なテーマが,十分に手厚く取り組まれているか,適宜点検するメカニズムは必要である.

テーマが重要かどうか,どう判断するのか.第二次世界大戦以降のアメリカを見ると,高エネルギー物理,宇宙航空,無線・有線・光通信,コンピュータ,半導体,プラスチックス・セラミックスなどの材料,化学薬品,生化学などの研究分野が,重要として特定され,推進されてきた.基本的に安全保障や国威発揚に直結する研究を優先しており,結果は各方面で成功を収めた.米ソ冷戦の終結にともなって,アメリカではここ数年にわたって,研究予算の削減が行われているが,同時に新時代の要請を容れて重点領域の見直しも進んでいるように見える.

日本にも重点研究領域の指定はある.しかし,学問--すでに確立された体系が輸入されている場合が多い--の分野としての重点領域が指定されることが多く,人々の福祉,環境の保全,産業の成長など,普通の人の立場から見た価値観を構成するプライオリティが見えない.そのためか,テーマの専門分化が著しく,素人には重要かどうかもわからないテーマが多くなっている.むろん,優れた天才の頭脳活動は,かならずしも常人の関知できないところである.そうした才能を守り育てることも学界の役目である.そういうところは,学界の中で見識とリーダーシップを持つ「目利き」に委ねて采配してもらうしかない.

日本の代表的な物理学者の一人,中谷宇吉郎の研究を描いた映画を見る機会が最近あった.その中で,中谷が触発され,激励を受けた敬愛する先輩,寺田寅彦が彼に言った言葉のナレーションが,耳についている.「ねえ君,大事なことは役に立つことなんだよ.知識を集めることや学位を取ることではないんだよ」中谷は,雪の結晶を観察しながら,その言葉を思ったことだろう.彼の場合は,博物学的なアプローチにも見えるが,複雑な対象を体系化し普遍化することに成功した.学問が世界に大きなインパクトをもたらすとすれば,それが複雑な実問題の中から抽出され,学問として体系化される一方で,実問題に有効な解決を提供する場合である.単なる学問としての研究は弱い.

物理は本来実学である.無線通信も,CRTも,トランジスタも目的が明確でしかも挑戦的な課題を得ての物理の集中的な研究の産物である.日本でも,物理学が電子工学,計測工学,計算機,通信システムとともに進んだ事例もあった.たとえば八木秀次のアンテナは,電気工学における日本人のオリジナルな寄与として世界に高く評価されている.しかし,ある時期から,物理のかなりの部分が,誰かのつくった体系に只乗りする「バンドワゴン研究(高橋延匡東京農工大工学部長の言葉)」,あるいは,既存体系の細かい枝葉にこだわる「手帚・塵取り研究(R. Needham, Cambridge University Computer Science Laboratory Directorの言葉)」に陥ったのではないか.その途端に,必要に迫られて考えつくオリジナルな発想が失われていないか.

実学の側面を見失うと,枝葉に入る.昨今は,まるで「役に立ってはいけない」とでも考える傾向が日本の物理学界には存在するのではないか.いくら困難でも,システムから材料まで,理論から実用までを結びつける努力を,誰かがどこかでしている必要がある.さもないと,磁気記録,MRI, CT, 通信システムなど,システムや方式の関係した大きな革新は,いつも日本の外からやってきて,日本では,材料Aを材料Bで置き換えるといった改良しかできないことになる.物理学界といえども,日本の将来の課題に関係づけたテーマの選定を考えていくべきである.

ではいったい,今どんな課題が見えているだろうか.一つには,情報通信システムの物理がある.計算や伝送の方式までも視野にいれた高速,広帯域情報処理通信の研究が,現在の物理の重要な研究課題であることは,大航海時代に天体の運行を解き明かすことがそうであったのと同様である.次に,ミクロスコピックな材料の磁性や電気的性質を用いてLSIや現行の磁気記録の方式の限界を打開する課題がある.これには,素子や材料だけでなく,回路まで含めた視点が必要である.また,人間の感性に適した,計算機とのインタフェースは,誰もが高度情報社会の恩恵を受けられるために重要な課題である.高度の工業化の結果として,自然環境の劣化があるが,これは高感度の計測や修復のための物理研究を要求している.人間の健康に関わる病気診断,治療にも,数多くの物理的課題がある.これらの課題から出発した研究の中からこそ,出発点では見えていなかった未踏の領域が開ける可能性も高い.

物理屋には,物理こそ全ての形而下学のもととする自負がある.それは,必要ならいくら複雑でもシステムから新材料まで何でもやる,という態度に通じる.そうした思考・行動のできる人達が,これからの物理学界に大勢必要である.