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周辺からみた物理

物理学会の外から見ると

中山 茂

〈神奈川大学経営学部 259-12 神奈川県平塚市土屋2946〉

日本の場合はそれほどピンとくる話ではないが,アメリカの物理学界では冷戦崩壊で,物理学と軍事との関係がいかに緊密重要であったかを,今更のごとく感じさせられている.原子物理学から原子力を生んだという戦時中の例で,戦後は基礎科学から技術革新へというリニアー・プログラムが始まったが,それが疑われ出して,今基礎科学の振興の理由付けに苦慮している.さしあたって,基礎科学よりも地球環境問題という「戦略的科学」に冷戦時の研究費をまわしてリストラをしようとしているが,核の後遺症は当分続きそうで,その後始末のためにも,予算をださせようとしている.

50年を振り返ってみると,敗戦直後は物理学が原爆を生んだという理由で,弾劾されることはなかった.むしろ日本の物理学は原爆をつくれなかったことが世論の上で反省点として出されている.戦時中の発想からまだ脱してはいなかったのである.今にして思えば不思議な気がするが,原爆の被害から直接に反科学的思想が出ることはなく,物理学は戦前戦後を通じて無傷で生き残ったのである.

しかし,戦いすんで日が暮れて,よくよく考えてみると,物理学者がホロコーストの張本人ではなかったか,という素朴な疑問が現れはじめた.しかし物理学者はノーベル賞の湯川,朝永博士もおられることだから,おそれ多くて,物理学者を戦争犯罪人呼ばわりする度胸のある言論人は現れなかった.ただ,もし物理学がなかったら,我々は核の恐怖にさいなまれることはなかったはずだ,とぼやく声はあった.

その疑問がはっきり出たのは,文芸評論家唐木順三の絶筆,『科学者の社会的責任についての覚え書き』(1980)である.唐木は早くからこうした疑問を抱いていたが,死を前にして思い切って物理学者を名指しで非難した.戦後民主主義時代の物理学至上主義のスポークスマンであった武谷三男が直接の標的であったが,朝永はよいが湯川はまだ物理学至上主義を脱していないから,ダメだという主張であった.

唐木がいうように物理学者のうちの誰が良くて,誰が悪いというのは,おかしい.湯川,朝永,武谷という世代はひとしなみに物理学至上主義者である.世間で原水爆の反対運動があっても,それとは関係なく,物理学者は物理学を推進すべきであると信じて疑わない.物理学者の存在そのものを問う唐木の実存的問いに対する答えにはならない.

物理学者さえいなければ,核の恐怖はなかったのに,といわれても,今更物理学者をみんな焚書抗儒にしても,原爆はなくなりはしない.原水爆の管理はもう物理学者の手をすっかり離れてしまっている.それに原水爆の開発に当たったのは,物理学者のうちのほんのごく一部であって,大部分は関係ない.それなのに,連帯責任を取らせられるのだろうか?

しかしやはり物理学的発想のなかに,原水爆に至るものが潜んでいるのだから,それは物理学が未来永劫背負わねばならぬ原罪であろう.

物理学者という種族は今でも多く大学に棲んでいる.この大学という制度がヨーロッパ中世に起こったときは,大学で神学,法学,医学を身につけた人たちはプロフェッションと呼ばれた.プロフェッションは日本語では訳しにくいが,世間から魂の問題,利害の問題,健康の問題について,富にも権力にも支配されない権威を寄託された知的職業である.彼らはそれぞれ市民社会にクライエントを持つ.

では物理学にとって,クライエントとは何か? 物理学を中心とする近代科学には実はこのクライエントがない.近代科学はこうしたクライエントから解放されて,人間のくびきから脱して,自由に伸びたのである.近代科学にはあらかじめ定められた目標というものはないから,学問の論理に従ってどこへでも一瀉千里に止めどもなく伸びてゆき,そのあげく原水爆までつくってしまった.

こうした暴走性に気がついて,科学批判が起こったのは,1960年代末からで,世代的には広重徹や私の世代のころからであろう.湯川・朝永・武谷の世代と違うのは,科学の無制約・無限発展性を信じていないことである.物理学の推進の仕事を他からのアセスメントから解放された聖職ではないと思っていないことである.(この間の世代の対比は最近の拙編著『科学技術とエコロジー』(コメンタール戦後50年,第7巻(社会評論社,1995))で行われている.)

私はかつて「サービス科学」と称して,クライエントのある科学を提唱した.物理学ではなく,中世大学の医療をモデルとするものであった.

クライエントといってもいろいろある.軍産複合体のように軍や企業をクライエントとするもの,それに基礎科学では同業の研究者をクライエントとし,大学人なら学生をクライエントとする,ともいえるだろうが,この場合は一般市民,あるいは人類をクライエントとする,パブリック・サービス科学である.

そんなチャチなもの,と物理系の友人に笑い飛ばされたことがあったが,物理学会も時に専門のタコツボから抜け出して,外界からのアセスメントを聞いてみるシンポジウムをやってみてはどうだろう.私も時々「物理学の社会的責任」の会に出てみるが,結構みなさん愉しく議論しているようである.