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50年をかえりみる

多様化時代の物性科学--理学と工学の区分を超えて--

国府田隆夫

〈日本女子大学理学部 112東京都文京区目白2-8-1 e-mail: koda@jwu.ac.jp〉

1. はしがき

日本物理学会50周年記念にあたり,理学・工学の接点や物理,応用物理の関係について書くよう編集委員会から求められた.学生時代(学部,大学院)を応用物理学科で送り,その後も毎年,物理,応物の両学会に出席したり,二学会が共同で運営している応用物理学欧文誌刊行会(JJAP)の編集・運営に関係したりで,現在に至っている(JJAPは監事の任期をこの3月に終えた).3年前,東大を定年退職するとき,小文と同じ標題で最終講義をした.日本女子大に移り,家政学部から独立したばかりの理学部に職を奉じることになったが,そこでも理学と応用理学(家政理学)との接点が何かにつけ意識される.そんな次第で,「理学」,「工学」とは何だろうかということは,筆者にとって多年の懸案になっている.1)

これは,しかし,筆者だけのことではなかろう.おそらく本会会員の過半数が,理工学の諸分野や企業の研究開発の現場などで,様々な立場から考えたり,悩んだりしていることではあるまいか.議論するには事が複雑に過ぎるので,本誌や学会講演会でこの問題が真正面から論じられた例は,希であると思う.それでは当面それほど重要ではないかというと,その逆で,いまこそ本腰を入れてこの問題を考えねばならない状況に立ち到っているように思われる.たとえば,この春,金沢での年会で第1回の論文賞授与式があった.授賞対象は「ジャーナル」と「プログレス」の論文で,「JJAP」が除かれている.「理学・工学の接点」としての応用物理学は,「本家の物理学」に対して,いまだに傍系あるいは従属的という考えの表れなのだろうか.もしそうなら,会員の一人として,合点のゆかぬことである.その辺のことを,個人的な経験や感想を含めて,この機会に書かせていただこうと思う.おそらく異流,異端と思われる点もあろう.そうした批判を受けることを筆者はいとわない.


2. 物理学の本家と分家

物理学の本家と分家の関係は,工学との接点である応用物理以外に,数学(数理物理,計算物理),化学(化学物理,分子物理),生物学(生物物理,分子生物物理),地球・地質・気象学(地球物理)など数え上げればきりがない.これらの領域は,物理学の発展が未開拓の周辺に及んだ結果という観点もあろうが,逆の場合もあるだろう.本家・分家未分の草分け時代の研究が整備・洗練されて,現在の物理学の中核になった例も少なくないはずである.古くは熱輻射理論の基礎になった工業熱計測や,近くは電子工学と半導体物理の関係がすぐに思い浮かぶ.最近では,ハイテク機器利用の超精密計測技術に支援された宇宙論の発展もその例だろう.

だが,創成期や発展期には必要不可欠だった多様性・学際性が,研究の成熟につれ,物理学の純粋性を損なう異物として軽視されたり,ときには嫌われたりする傾向がある.「理学」,「工学」という立場を過度に意識すると,「理学」と「工学」が互いに無関心になり,ときには反目する傾向すら目立ってくるようである.このような感想は筆者の独断と偏見と思われる方もいるかも知れない.そうではないことを次の例で示そう.


3. 純正物理学と「なになに」物理学

朝永先生が1973年10月に「物理よもやま話」という一般講演を京都でされた.その記録がカセット・テープで市販されている.2)軽妙な語り口だが,その内容には物理学の将来に関して,いまも耳を傾けるべき示唆がある.先生はまず物理学発展の跡を辿り,物理学が複雑多様な自然現象の中から,極度に単純化された状況をいわば無理やりに(自然を拷問にかけるようにして)作り上げ,それによって純粋で普遍的な法則性を抽出してきた,そういう意味のことを話される.だからこそ,物理学の研究は汎世界的であり人類共通の知的財産となった.物理学の強みは,まさにこの普遍性と抽象性とにある.だが同時に,それによって現実世界のもつ多様多彩な連関性が切り捨てられ,その結果,一般社会の人々にとっては親しみのない学問となった.この講演の最後で,将来の物理学の発展(あるいは再生)には,純正物理学という枠を外して,もう一度「なになに(地球,生物,…)」という条件付きの,多様な現実世界に即した方向に向かう必要があると指摘されている.

たまたま本誌2月号に,「なになに」物理学のひとつである「生物物理」について,和田昭允氏が印象に残る記事を書かれている.3)その冒頭に次の名文がある.既に読まれた読者には余計だろうが,そうでない方々のために引用させていただこう.“約50年ほど前,東夷(あずまえびす)か南蛮かは知らないが大物理学帝国の辺境,生物科学帝国との国境地帯に「生物物理」という種族が興ってきた.この知的好奇心旺盛な狩猟民族は未開の辺境領域地方を開拓し,豊かな収穫をあげ,大帝国との交易を頻繁に行ってきた.しかし,大帝国の中に確固とした市民権を獲得したとは現在でもまだ云い難いように思われる.”

知的好奇心は,物理学のみならず,すべての科学の原動力である.知的好奇心という心の働きには,楽しさ,憧れ,ときめき,勁さや,とりわけ美意識4)など,理性だけではなく情性的な要素がそこにある.それを大切にするのが「科学」だが,それは「理学」にしても「工学」,「生物学」にしても同じだろう.現在の「生物物理」は「複雑系の物理」や「物性物理」などの部分空間だと和田氏は言われる.そのとおりと筆者も思う.とすれば,「生物物理」は,現在の「大物理学帝国」の中に,とうぜん正当な市民権を与えられてしかるべきであろう.現在はそうした段階には到っていない,そういう無念さが前述の文に籠められているのを感じる.

物理学,とくに日本の物理学は,正統派,主流派としての「理学的」物理学に必要以上に拘り,それに偏りがちである.これは明らかと思われるが,それは,それなりに理解できる背景をもつ.この国の文化的伝統は,経験と勘に頼る職人芸的な思考法や技術を重んじてきた(しばしば過度にまで).そのもとでは,精緻な論理的分析に基づく西欧流の近代科学が,なかなかなじめなかった.5)明治初期(明4-9; 1871〜76)に,近代国家としての方針を求めて,岩倉使節団が欧米各国を歴訪した.その報告書『米欧回覧実記』(久米邦武)に,東西の比較・対照が次のように纏められている.“欧州:人の組織を恃み,天に勝つ道を求める.タオリック(理論)に拠る.東洋:天を恃み,自我に勝つ道を求める.経験に拠る.”

武士道や儒教的倫理の影響を強く残していた当時と,戦後の高度成長期を過ごした現在の日本社会とを同日に語ることはもちろん無理だろう.しかし,特定の文化的枠組み(習俗,言語,価値観を共通にする共同体:K. R. Popper)の中での人々の精神構造は,そう急激に変わるものではない.それは現在の東欧諸国での民族紛争の例でも明らかである.文化的枠組みの内部の自己同一性は,数百年以上にもわたって原形を保っているようである.日本という「文化的枠組み」に外部から移植された学問としての物理学が自分自身の根をどう下すか,それが最近ようやく当事者の意識に上ってきた.それが,第15期(H. 3. 7-H. 6. 7)の日本学術会議特別委員会「文化としての学術」(委員長・宅間 宏)の設置や,物研連の「日本の物理学:明日への展望」6)編纂の背景であろう.

かつて明治開国の頃,洋学としての自然科学を受容するに際して,西欧合理主義の基盤を同化しようとする意識的な努力が「理学」として進められた.その一方で,富国強兵,技術立国という国策を支える実学的な応用科学諸分野の組織化が,「工学」の名のもとに進められてきた.理学と工学とのこの人為的区分が,日本社会の発展に大きな役割を果たしてきた,そういう指摘がなされている.7)

このような「理・工」の制度的分離という装置の中で,総合理工学としての物理科学の発展に資したのが,理化学研究所という特徴的な性格をもった組織だった.多くの個性的な研究者がそこで育ち,物理学,化学,さらに薬学などの分野で独創性の高い研究がなされた.それについては,あらためてここで述べるまでもあるまい.戦前の理研の様子は諸先生からの話や記録でしか知るすべがない.だが現在の和光市に移転する前に駒込にあった頃の理研には,大学院学生のころしばしば行く機会があった.銀杏の大樹に囲まれた古い建物の中には,大学のアカデミズムとは異質の,研究者のコミュニティに相応しい自律的雰囲気を感じることができた.そこで長岡半太郎,本多光太郎,寺田寅彦などに代表される人々によって,日本の応用物理学の基礎が作られたことは,誰しもが知るところである.「応用物理」の第1巻(図1)が出されたのが1932年(たまたま筆者の生年)だから,定期出版物については本誌の先輩格にあたる.「応用物理」や「理研彙報」を舞台に,地球物理や生物物理など,「なになに」物理学と呼ぶべき多彩な研究が,萠芽的な形ながら活発に行われた.実際,先に引用した和田昭允氏の記事にも,日本の生命科学で先駆的な役割を果たした寺田寅彦とそのスクール(中谷,平田)や,放射線生物学を創始した仁科,村地,玉木グループのことが引用されている.

こうした研究の萠芽が健全に育つためには,穏やかな陽光慈雨に比すべき成熟した文化的土壌が必要である.残念なことに,当時の日本のアカデミズムは,これらの研究に冷たかったようである.もう一度だけ,和田氏の記事から引用を許していただこう.平田森三(筆者は学部学生のとき統計現象論の講義を受けた)と某生物学者との激しい論争を仲裁した寺田は,別のところで次のように書いているという:『「生物のことは物理ではわからぬ」という教典的信条のために,こういう(物理的に面白い)研究がいつもいつも異端視されやすいのは誠に遺憾なことである.科学の進歩を妨げるものは素人の無理解ではなくて,いつでも科学者自身の科学そのものの使命と本質に対する認識の不足である.』応用物理創刊の年の年頭に書かれた次の文章によっても,寺田の志がどういう点にあったのかを窺うことができる:“現在世界中の学者が争って研究しているやうな問題が,やがて行詰まりになるであらうということは当然の事でもあり,又過去の歴史が悉く此れを証明して居るやうに思われる.さういう場合に,突然に何處からか現れてきて新生面を打開するやうな対象が,往々それ迄は殆ど物理学の圏外か,少くも辺鄙な片隅にあって存在を忘れられて居たやうな場合であることも敢えて珍しくはないのである”8)

物理学の辺境分野(工学,化学,地学,生物学…)では,今も数々の知的好奇心をそそるはずの現象や物質が,物理学者の関心を待ち受けている.9)だが,そのような“多様化世界”には無関心のまま,物理学に固有と信じ込んだ研究分野だけにともすれば関心を限定し,研究組織を固定化しているのが,現在の物理学(特に多様性を特徴とする物性物理),ひいては物理学会のありようではあるまいか.

図1
 図1 応用物理,創刊号の表紙と目次.物理学会の表紙については,会誌 51 (1996) No.4 の表紙と同号の記事 (p.262)“会誌表紙の変遷”を参照.




4. 物理と応用物理:コミュニティと組織

ここで話を個人的なことに戻そう.教養学部で,どの学科に進学しようかと考えていたころ,人生には何の意味があるのだろうかというような,とりとめない欝屈感にとらわれていた.最近,「大学教師が新入生に勧める本」などの記事を見ると,理工系で今は名をなしている人達が,若き日にDostoevskiの小説や道元禅師の言行録,正法眼蔵随聞記などに大きな影響を受けたことを語り,人間実存の問題に一度は触れるように勧めている.しかし,当時はこんな優柔不断な悩みは自分だけと思い込み,級友たちが文学書などには目もくれず「Courant-Hilbert」や物理の専門書に専念しているのに引け目を感じながら,それでもDostoevskiやSartreを読み耽っていた. 理学部の物理と工学部の応用物理のどちらにするかに迷い,学生服の襟章には理学部のSのほうが工学部のTより格好がよいなど他愛のないことを考えながら,結局は後者を選んだ.当時の応用物理学科(現在の物理工学科)は設置されて間もなく,伝統の重みのない自由さがあると思ったこと,当時の不況を考えると工学部のほうが卒業後の就職に有利と考えたこと(両親にとって筆者は6人の子供の長男だった),中学生以来親しんできた寺田寅彦に縁の方々がスタッフに多かったこと,最後に,その著書でお人柄に惹かれていた犬井鉄郎先生のいらっしゃる学科というのが,進学決定の主な動機だった.

工学部でも異色の学科だったことは確かで,教授,助教授のすべてが理学部物理出身,その大部分が理研に関係された方々だった.物理学科の平田森三先生の統計現象論が4年のときの必修課目だったし,磯部孝先生の計測原論では高橋秀俊先生のお名前や研究が頻繁に引用された.学問的雰囲気では工学部より理学部に近かったといってよい.工学部共通講座として学科に所属していた力学教室が,犬井先生を中心として当時は若手の植村泰忠,豊沢豊,田辺行人先生など錚々たる顔触れで,独特の厳しくかつ自由な雰囲気を醸していた.10)卒論の指導教官だった犬井先生はじめ先生方から,工学部だから工学的でなければならないという意味のことを言われた覚えは一度もない.

応用物理と物理とはどう違うのか,気にしたのはむしろ学生の方だったが,先生方はそんな議論に取り合ってはくれなかった.それと対照的に,同じ応用物理学科に所属していた数理工学コースでは,純粋数学と異なった工学部での応用数学の意義が強調されていた.理学と工学に本質的な違いがあるとするなら,数学や化学に関してであって,物理学に関してはその間に本質的な違いはない,そういう筆者の考えには,当時の応用物理学科の性格が強く反映しているようである.大学院を修了する頃,駒場に物性研ができて,六本木に移転した直後に光物性部門の助手になった.工学部から見れば理学的方向への移動だったが,この部門の教授だった牧島象二先生,助教授の塩谷繁雄先生ともに工学部(応用化学)のご出身で,隣接研究室でも航空学科出身の神前熈先生,化学出身の長倉三郎,井口洋夫,小林浩一の諸先生など,すべて大物理学帝国の圏外から,この新しい研究所に参加された方々だった.そのせいか,理学だの工学だのという区分意識を超えた所で,新しい物性科学の建設という目的意識を共有していたように思う.

個人的なことを書いたが,当時の物性研の雰囲気に接した経験に照らすと,物性研や日本の物性物理の方向は,その後,次第に物理の隣接分野,近くは応用物理,さらに化学,地球物理,生物学などとの接点を含む「なになに」物理との接触面積を減じる方向に向かって変化してきたように思われる.一つには,物性研とは別に分子研が創設されて長倉,井口先生などが移られたことがある.もう一つには半導体工業の急激な発展によって,電子工学という確固とした分野ができ,その基盤としての応用物理学が,かつての“鷹揚な”物理学の性格を脱却して高度成長を遂げた.*それが,物性物理学の在り方に少なからぬ影響(反作用的な)を及ぼしたと考えている.

元来,物性物理の特質は,「なになに」物理学に関係する隣接分野からの直接,間接の支援のもとに,多様多彩な物質世界を物理学の立場から研究しようという点にあろう.それが,国際的な過当競争意識(学術的オリンピック化)と国家的レベルでの高度技術化の波に翻弄され,物質科学の多様化・学際化の方向とは逆に,むしろ「理学的」物理の性格を強めることによって,自己同一化を計る傾向に赴くようになったのではあるまいか.しかし,これと対照的に「理学」圏外の社会では,明治以来の科学・技術の社会的受容の動きが今も続いていて,それが,これまでは効率的に機能してきた「理学と工学の人為的区分という装置」に大幅な改造を迫りつつあるのである.


5. 終りの初めに

現在の日本の物理学会は自己完結的に閉じている.前述したように,その「閉鎖性」には,それなりの歴史的な経緯とある種の必然性があったろう.だが,定年という節目を迎えて,以前より一般社会に近いと思う視点から見ると,物理学会という組織の内部にいた頃にはそれほどに感じなかった閉鎖性が気になってくる.筆者の尊敬する先輩格の知人K氏(分野はまったく異なる)から最近いただいた葉書にも,次のような文言があった.“定年になって科学者のcommunityを外から眺める機会が多くなり,いかに多くの事が,その世界の中でしか意味をもたないかという事実に驚いています.”この感想は,まったく筆者自身のものでもある.

物理学者のコミュニティの枠をこえて,驚くべき多彩さで現代技術化文明世界の「語り部」の役割を果たしてきたF. Dysonに次の言葉がある: “It makes no sense to me to separate science from technology, technology from ethics, or ethics from religion."11) 筆者もまさにそうだと思う.衆生病むゆえにわれ病む.12)人間だけのもち得るこの不思議な心の働きは,また,物理学者やそのコミュニティである物理学会にも及んでいるだろう.物理学の本領とする知性の働きの場とは別に,人間の心の深奥には知性の及び難い領域がある.Dysonは,別の著書「核兵器と人間」の中で,自閉症児をもつ家族とそれを囲む多くの人々の輪(教師,医者,父母,友人,見知らぬ人など)が,病児の孤独を突き崩し両親の苦悩に意味を与える治癒能力について書いている.13)

物理学者という職業に閉じ篭っているかぎり,こうした問題は別世界のことだろう.もしそうならば,物理学者のコミュニティ自体が自ら閉じたものと外の世界から見做されていることに気付く日がいつかくるにちがいない.日々の研究生活の厳しさにどういう意味があるのか,自分自身に対する問いとしても,あるいはこれから研究者になろうとする若者達からの問いとしても,これまでとは違った重みでそれを受け止めなければならない責務があることを,筆者は最近感じている.たとえば,物理学の研究者としての生活で一日の大部分を過ごしていても,自分自身を囲む社会的,家庭的環境の中では,たとえば親として子供の教育の問題に直面する.程度の差はあっても,そこでは,いじめや登校拒否,さらには種々の心身症の問題が他人事ではなくなっている.また年老いた肉親の介護の問題も,以前とは比較にならない重みで考えざるを得ない状況になってきた.物理学者も一般社会の人々と同じ現代社会の諸問題に取り囲まれて生活している.そうである以上,日々の生活に容赦なく浸み込んでくるこれらの問題の総体に,一人の人間としてどう対処するのかということを,根柢から考えなければならない.これまでは研究だけに没頭することが研究者の美徳であり責務であった.これからは,社会生活の求める義務にその優先権を譲ることも起こり得るだろう.

一言で言えば,自然科学の基盤として高い誇りと自負をもつ物理学(“万学の女王をめざす物理学”:広重徹14))が,篤志家や社会,国家の庇護のもとに,世俗を離れた聖域で純粋な研究に没頭する時代は,過去のものになったのである.物理学の多様化という点でも,社会との関係においても,現代に即した新しい物理科学の方向や組織の姿が求められなければなるまい.物理学会と応物学会の関係についても,このような視点から,互いの関係をあらためて考える必要がある.理学という非世俗的な学問に純粋に献身する清貧廉潔の士を貴ぶ気風は,今もこの国の社会から失われてはいない.また,実学尊重の気風もある.だが,もし「理学」としての孤高さや純粋さを自ら誇ったり,逆に実学としての社会的効用を過度に意識する尊大さが「工学」にあれば,理学と工学,物理と応用物理の間には,おのずと心理的な反目が生じる.そこでは「理学」,「工学」両方の側で,他に対する関心と敬意の気持を失わない謙虚さが大切であろう.物理と応用物理の狭間に近いところで30余年を過ごしてきた経験でいえば,両学会についても,物性科学での他分野との関係についても,1960-70年代までは,かなりうまく協調関係を保っていた.それが,80年代の高度成長期に入ったころから,軋みが出始めたように思われてならない.要は,互いに寛容と敬意をもつことと,知的好奇心を自分の専門分野だけに限定せず,他の分野にも積極的にそれを発動させていく度量,識見と柔軟さを大切にすることに尽きる.

最近,学部低学年の講義や実験で,若い世代に物理学の妙味を伝える難しさを痛感している.とくに物性物理はそうである.15)“神は細部に宿り給う”という.しかし,専門外の人々の目には細かすぎるのである.厳めしい専門用語を使った最新の研究の解説も,同業者以外の人々の関心をなかなか惹かない.本誌の記事でもそうではあるまいか.まして中高校生,学部低学年生に,物性物理の魅力を正しく伝えることは至難の業である.むしろ身近な現象を例にとって,物理科学の妙味を平談俗語的に伝えることが大切なようである.幸いに,一般教育の場で従来の正統派物理学の枠を超えた視野の広い教科書(たとえば,武田暁『物理科学への招待』(裳華房),林憲二,緑川章一『めぐる地球・ひろがる宇宙』(共立出版)など)や,異色の講義(後藤信行ほか『パチンコ玉の宇宙論』(長崎大学)など)のような意欲的な試みが目を引くようになってきた.そのような新しい動きを拱手傍観しているのではなく,なんらかの手段でそれに参入することを,それぞれの立場で考えなければなるまい.そこでも物理学会と応物学会とが互いに協力しあう姿勢が必要である.しかし,現状では,その間に様々な障壁があるように感じられることを残念に思わないではいられない.

大乗仏教は,大智(Prajna, the Great Wisdom)と大悲(Karuna, the Great Compassion)という2本の柱に立っている.16)「大」は無限無量の意であり,両者が一体となって衆生世界に働いているのが仏道と説かれている.それは神の叡智(sophia)と愛(agape)とを説く基督教でも同じだろう.他方,有限相対・思慮分別の知性の世界では,「理学」の探求が宇宙の果てや生命の起源まで及び,「工学」はインターネットによって世界中の人々を直接に結び付けるに至った.前記の信条をDysonと同じくする立場に立つなら,今や理学と工学,物理と応用物理とは互いに分離したり反目したりするべきものではなく,一体となって相い携え,将来への歩みをなすべきものではなかろうか.


参考文献

  1. 国府田隆夫:応用物理 60 (1991) 312-普遍性と個性-日本の応用物理;応用物理教育分科会会誌 17 (1993) 4-日本の応用物理-その特質と役割;『日本の物理学:明日への展望』(物理学研究連絡委員会報告,1994)p. 229-日本の応用物理.
  2. 朝永振一郎:『物理よもやま話』(岩波書店,1988).
  3. 和田昭允:日本物理学会誌 51 (1996) 83 -生命の分子物理的背景-近代的“生命論”の始動.
  4. 最近の本誌談話室欄に関連の記事が掲載されている.法橋 登:日本物理学会誌 49 (1994) 1018 -自由意思の進化論と心の物理学;同誌 50 (1995) 738 -自然の階層構造と物理学者が考えた美.
  5. 国府田隆夫:科学・社会・人間 No. 52 (1995) 25 -日本の物理学が文化となるために.
  6. 日本学術会議・物理学研究連絡委員会編:『日本の物理学-明日への展望』(1994年3月25日).
  7. 有馬朗人:文芸春秋(1993)3月号,214 -科学と技術の間-工学部を重視したこと,それが日本の力の源だ.
  8. 寺田寅彦:『寺田寅彦全随筆三』(岩波書店,1992)p. 350 -物理学圏外の物理現象.
  9. F. Dyson: Infinity in All Directions (Harper & Row, 1985)[鎮目恭夫訳:『多様化世界』(みすず書房,1990)].
  10. 日本物理学会1994年秋の分科会シンポジウム「東大工学部力学教室と量子論的物理学の夜明け」.
  11. F. Dyson: Disturbing the Universe (Harper & Row, 1979) p. 5.[鎮目恭夫訳:『宇宙をかき乱すべきか』(ダイヤモンド社,1982)p. 8].
  12. 長尾雅人訳註:『維摩経』第3版(中公文庫,1991).
  13. F. Dyson: Weapons and Hope (Harper & Row, 1983) pp. 300-307.大塚益比古,他訳:『核兵器と人間』(みすず書房,1986)pp. 384-393.
  14. 広重 徹:『科学と歴史』改訂版(みすず書房,1970)pp. 258-290.
  15. 国府田隆夫:物性研だより 32 (1992) 47-物性科学の将来-物性物理とその隣接分野.
  16. 鈴木大拙:『仏教の大意』(法藏館,1996)新装版.

*ちなみに,両学会の会員数は,約1.90万人(物理)と約2.26万人(応物)である(1996年6月末のデータ).