会長メッセージ

物理は役に立つ

日本物理学会の役割は、研究のための単なるグループ活動を超え、公共的機能を担うことが期待されている。これについて考えるうちに、学生への日々の教育で 漠然と感じていたことが明確になった。それは、物理学は “役に立つ” ということだ。その契機は、先日同僚の研究室で、故久保亮五先生が1979年の物理学科卒業生のために書かれた文集に「基礎的研究ほど実用的なものはな い」「真理とは役に立つもの」という記述を発見したことだ。物理学は役に立つことをもっと公言したい、というのが本稿の趣旨だ。
社会で物理の有用性の意識が薄いことは、さまざまな局面で垣間見られる。以前から、若者の “科学・技術離れ”、 “物理離れ”に広く危機感がもたれている。高校生の物理選択生徒が20%を割っており、5人のうち4人まではクーロンの法則を知らないまま社会に出ている。

では、物理学を有用と考える人はなぜ少ないのか? ひとつの理由は、技術を通じての科学の存在感が薄いことだろう。わが国では科学と 技術の結びつきが弱いことが広く認識されている。その主要な原因は明治以来、科学と技術がそれぞれ別の成長をしたから、という説明は多分あたっている。日 本から始まった科学が先端技術を生み出した、あるいは技術の堀下げが新たな科学の芽吹きとなったという経験が乏しいと思われる。日本の科学は西欧科学とは 異なる履歴を持っており、それが、社会に直結する技術と、科学とのつながりがいまだに弱い原因だと思える。
社会に少数の物理ファンが健在であることは心強いが、一般人の素養・教養としての物理の影は薄い。しかしながら逆に、物理は他の学問分野に比べて社会でそ れなりに認知されているという実感を持つこともある。もしそれが、物理学者から文部大臣が生まれ、戦後の混迷期に湯川・朝永両博士のノーベル賞が与えた希 望のせいだけだとすると、いかにも残念なことだ。

物理は役に立つことを再確認し、物理は社会に有用だとあらゆる機会に声を大にして言いたい。もしわれわれ自身に、物理は役に立たないという引け目あるいは気取りがあるとしたらそれは捨てたい。 また、 「役に立つ」 ことの意味を正しく理解すれば、狭い専門意識を克服することにつながるに違いない。
物理がまず有用であるのは、いうまでもなく技術の革新においてだ。たとえば、日本学術会議の物理学研究連絡委員会報告(平成6年3月25日)を見ると、原 子力の発見が核の冬の脅威という負の側面とともに核融合の可能性をも提示したこと、物性物理学が情報化社会の物質的基盤を提供したことが指摘されている。 2007年のノーベル物理学賞は、まさしく、磁気抵抗現象の究明から、あの指先にも乗る音楽プレーヤーが誕生したことに対して与えられたものだ。 さらに、 X 線回折は DNA の構造決定によって生物学に革命をもたらし、われわれの生命観を一変させたことも指摘されている。

では、物理学の有用性は、いつも工学・技術を経なければならないのか。そうとは思えない。例えば、一般相対論は現在のGPSの高精度にとって不可欠だが、一般相対論から技術が生まれて GPS が誕生したわけではない。 また現在、放射線治療の分野で物理学の素養を持つ人(医学物理士)が欧米に比べて1桁少なく、その増強が叫ばれている。これらはいずれも直接、社会で求められる物理学だ。
そ れでは、自分の狭い専門分野が社会でどのように役立つと考えればよいのか。工学や応用科学など、社会に近い学問領域に役立つことは明らかに社会の役に立つ ことだが、それだけではない。自分の隣接分野、あるいは、一見縁遠く見える他の基礎分野の役に立てばそれも役立ちのひとつだ。心すべきことは、ハツカネズ ミのように、自分の分野の中でだけくるくる回り、ひとりよがりにならないことだろう。
物理学は、新物質・材料の発見などによって社会の役に立つだけではない。物理学の特徴は論理と実証性を厳密に追及することであり、その方法論は多方面の学 問の展開に強い影響を与えてきた。卑近なところでは、いわゆるニセ科学対応などで一般社会に役立っている。さらに昨年制定された「公益社団法人および公益 財団法人の認定等に関する法律」の第2条でも、公益活動の定義の冒頭に「学術」があげられ、学問が社会の役に立つことが明記されている。

では、物理学が社会の役に立つことを、どのように社会に向けて発信すればよいだろう。日本物理学会が最近始めたこととして、 JPSJ で毎月、 Editor's Choiceとなった論文とそのやさしい解説をマスコミ各社に情報提供していることがあげられる。知られなければ存在しないも同然だから、これからもあら ゆる機会をとらえて、社会に向けた積極的な発信を行う必要がある。また、科学史や科学社会学と連携して、社会への役立ち方の実証的データをわれわれが学ぶ ことも有効であろう。教育の場では指導者の言葉の端々が、指導される側に大きい影響を与える。物理学の知識を持つだけでなく、論理性と実証性の意味を正し く理解した指導者が求められる。
(2007年10月23日原稿受付)

第63期 会長
鹿児島 誠一
KAGOSHIMA Seiichi
会長 東大院総合文化
(第63期 会長任期:2007年9月1日より1年間)